二兎を追い、二兎をも得る

日常は無常。心は満腹を知らず、醜くも大衆の亡霊を頬張るばかりである。

スケジュール帳と日記帳

”もしも大地震がおこったら”

もしくは津波が、突然の火事に見舞われたら何を持ち出すか。

 

縁起でもない問いに対して私の回答は

・携帯電話(と充電器)

・財布

・通帳

このあたりは共通のものだろう。

災害時に持ち出せるものはぜいぜい中型のカバンに詰め込めるものが限度である。

ここから先が個人の趣向(思考)が現れる。

ウォークマン

kindle

・厳選した書籍数冊

・スケジュール帳

・日記帳

・大学ノート

・万年筆とジェットストリーム三色ボールペン

 

以上が私が持ち出すであろう全てである。

本の冊数によるが(キンドルで扱ってないものか相当なお気に入りに限られるとは思うが)そこまで大した荷物にはならないと思う。

実はこれは小旅行に行くときのラインナップとほぼ一致している。

最低限の着替えがあるかどうかの違いである。

 

すなわち、娯楽として紡がれた音と言葉、

それからスケジュール帳と日記帳が私にとっての十分条件となる。

(ノートブックは雑記用のメモである)

 

私の娯楽趣味についてはまたの機会に書き留めるにして、

ここからはタイトルにあるスケジュール帳と日記帳について書いていきたい。

 

私論ではあるが、この2つの帳面の使用法は以下の通りである。

【スケジュール帳】

・”現在”の予定、TODOの管理

・”現在”必要なデータ

(近所のコースをランニングするときの消費カロリー、欲しいものリストなど)

・金銭の予算管理

 

すなわち、今の自分を管理していくために使用している。

これに対して、【日記帳】は

・現在の懸案事項の反省と今後の改善策の考案

・将来生きていたい自分について、また自分を取り囲む人々、組織について

など、未来にベクトルを向けて使用するものだ。

 

スケジュール帳については活用している方は恐らく私よりも上手く使いこなしていると思われるので、少しだけしか触れないが、

使用しているのは「ほぼ日手帳」で、オンラインで購入した際に付属しているジェットストリームの3色ボールで記入している。

このボールペンの細さも、滑らかさも抜群にしっくり来るので

もう少しグレードのいいやつが欲しくなっているところである。

私のスケジュール帳選びの基準は単純。

・毎日の時間軸での記入欄ができる限り広いもの。

・余白が多いもの。

これまではEDiTを使用していたが、今回初めてほぼ日にしてみた。

どちらも長所短所あるとはおもうが、紙の質と、方眼があるほうが書きやすいという理由で今後はほぼ日を使うと思う。

 

さて、どちらかといえば特筆すべきは日記帳である。

日記帳は基本的にフォーマットや分量に縛りがないので各々個人流の書き方があるからだ。

日本の人口のどれくらいが日記をつけているのかは分からないが、なんとなく生きるのが嫌ならば日記はできるだけつけたほうが良いと思っている。

別にPCや携帯電話器でのブログやSNSでもかまわないのであろうが、私は手書きを薦めたい。

なぜならば、自分で記入したということが強調されるためである。

それから、帳面をわざわざ人に見せたりはしない。

デジタルで記入するとどうしても”よそ行きの言葉”になってしまう。

できるならば自分のために書くべきだと思うのである。

 

というわけで、”俺流”の書き方であるが、ポイントをいくつか列挙する。

・自分と会話する。

・できるだけ気取る。

・それでいて正直に。

・最大の目的は、自分を認めてやること、許してやること。

 

がんばれないことはきっと誰にだってある。

問題は、がんばれないからダメなのではなくて。

自分はがんばれない人間なのだと思い込んで、がんばることをやめることである。

がんばれない自分を許してあげられるのは他でもない自分だけなのだ。

これは正当化するということではなく、ダメな部分を許してあげて

それでもがんばりたいという自分を認めてやる作業なのである。

 

日記では過去のことにも触れられるが、事実は変えようがない。

だから、日記で過去の事実に触れるときとは、後悔の解釈を変えてプラスに持ってゆくと時だ。

どちらにしても、悪い思い込みを捨てて、良い思い込みをさせるのが日記の役割であると思っている。

 

というわけで、スケジュール帳と日記帳。この機会に

自分だけのお気に入りのものを探してみてはいかがだろうか。

 

継続の理論

継続は力なりとはよく言ったものだ。

多くの文章や映像、音楽が継続の重要性を教訓として民衆を説き伏せている。

 なにより継続の効果は科学的に立証されているのである。

そのため物事を始めるときは、誰しもが継続を前提としているものだ。

 たとえば、

ダイエット、筋トレ、読書、楽器のクリック練、ブログ更新などなど。

 

ところが、新たに始めた物事のほとんどはついに継続を会得することは出来ない。

それどころかスタート地点から数歩のところですでに火は消えているのである。

そんな例は枚挙に暇が無い。あらゆる人が継続が必要と思っていても、それを実現できるのはマイノリティである。

これは実に不思議に思えるが、これにも理論が存在する。

 

全てのものには理由があるのだ。

彼と”なんとなく”付き合った彼女にもちゃんと理由は存在している。

それについて言葉にできる能力があるかどうかの問題である。

 

私は思う。明日の自分が今日始めたものをやりたいと断言できるのか、と。

というのは、どうも昨日までの自分と本日の自分がとても同一人物とは思えないのだ。

まるで意識を日でまたいだ自己が、姿形はまるっきり同じで中身すら酷似しているが、実は確定的に異なる存在であるかのようだ。

 

その正体は明確。脳のコンディションである。

ホルモンの分泌状態、栄養の過不足、外的要因の認識度合いなど様々な影響を受ける脳が昨日とは違った働きをするのである。

この点については、ググれば無限に解決法を示すページがある。

 しかしながら、そうしたいわゆる”ノウハウ”を以ってしても現代人の継続に対する壁はやはり高い。(ちなみにいうと私はノウハウという言葉が嫌いである)

 

とはいえ実用的なものも確実にあるゆえに技術的な部分は、書籍とインターネットに

任せるにして、継続における心構えについて書いてみたい。

私にとってはこれが継続への理論の外枠なのである。

 

継続するためには、明日の自分が今日行ったことを遂行してくれる必要がある。

上述の通り日をまたいだ明日の自分は他人である。

他人に物事をさせるうえで必要なものは、その物事により取り組みやすくなる「準備」である。

例えば仕事においても、数値を集計して欲しいときには、記入する枠や用紙をあらかじめ用意しておく、資料をひとまとめにしておくなどするといいだろう。

 

同じように明日の自分という他人がいかに継続したい物事に取り組みやすい環境を作り出せるかが重要なのである。

後回しも、明日の自分に対する過信、慢心、驕りからくるものである。

自分は自分のことを十分に理解しているつもりでいるのであろうが、十分に理解できているのならば続かないことで悩む必要も無い。

それよりも、しっかりと把握できる自分は、この瞬間の自分のみであとは全て他人と割り切ったほうが対応のしようがあるというものだ。

 

長くなったが、自分は決して身内ではない。礼儀と思いやりを持って接すること。

それが継続への近道であると私は思っている。

後回しの理論

やらなければならぬことを後回しにしてしまうことが、多くの人にとっての悪癖である。これは周知のものと思われる。

もちろん私もそれに漏れずこの難癖に苦心していた。

 

ところが最近この悪癖の妥当性に気がついたのだ。

自分はそうなるまいと思い、認めなかったためにひらめかなかった。

このひらめきは大きい。

 

後回しにしてしまうことには、正当な理由がある。

”面倒さ”だ。

なんとなく面倒であり、気乗りしないことは後回しにしてしまううえで最も比重の大きい理由である。もちろん口には出来ない。

 

一見、これは悪癖であるように思われる。まあ、実際にそうであるとは思う。

しかし、いわばこれは逃避ではなく、確実に物事を遂行すべくの論理である。

すなわち、期日までの時間を出来る限り縮小することで、

物事と自分の距離を限りなくゼロにし、

いわゆる”面倒さ”が入り込む隙間をなくし、スムースに取り組むことができるのである。

これはむしろ怠惰でなく工夫といっていいだろう。

しかし、問題はその後回しにすることを決定したときの行動である。そこには比較的多くの隙間を持つために、行動を管理できない。

何よりも本来ならば、”後回し”にすることなく取り掛かるのが望ましいのは間違いの無い事実であるのだ。

 

この時間の縮小を上手く活用できないだろうか。

面倒さ を上手く活用できないだろうか。

ひらめきは単なるひらめきである。

課題の解決へのスタートラインにたったに過ぎない。

ぶっくろぐ

ブログというものは気になってはいたが、いまいち手を出せずにいた。

あくまで非匿名性の中で評価されたかったのである。

 

つまりは、誰も知らない中で意気込んでもしょうがないと思ってしまっていた。

いや、実際にはそうかもしれない。

しかし、匿名であるからこそ何のしがらみも無く能書きを垂れ流すことが出来、

その反応にいちいち憂う必要がないのだ。

 

私はここでは半透明人間である。

向井が放つ不気味さをもった、確実に実存しているけれど

それを証明することは出来ない、そんな存在であるのだ。

 

さて、こんな調子で気が向いたときに

気が向いたことを綴っていこうと思う。

 

誰しも人には言えないような恥ずかしい側面を持っているじゃないか。

それが私にとってはあまりに誇大に描きすぎた将来であるのだ。

それがどんなに戯れでも、ここならば気兼ねをすることは無い。

思い切り吐き出せる。

 

なぜなら、私は半透明人間なのだから。