二兎を追い、二兎をも得る

日常は無常。心は満腹を知らず、醜くも大衆の亡霊を頬張るばかりである。

20代の目標

ごきげんよう。

台風も去って急に訪れた寒さに実に困惑しているところであった。

体はもっと早くに困惑していて、1週間程前から手やら唇がかさかさだ。

 

 

さて、早速本題に入る。

インターネットっていう開かれた世界に在るとは言え、

膨大な情報に埋もれた、ここはあくまでも私のプライベートな空間として存在している事を信じて、ひとつ。一部の、私が信頼する、あるいは本当に信頼してくれる人にしか話さない事柄をまとめる。

すなわち私が一体どこを目指して進んでいるのかということだ。

そのなかでとりわけ20代を通しての目標を記していく。

中には非常識な内容もあると思う。

別に信じてくれなくていいし、無理なら無理で良い。いずれ修正していく。

まずは目指したい道を目指す事。そっからはじめたい。

 

では、はじめに、わたしの夢。

そう、これは目標ではなく夢である。今は現実味が全くないのだから。

わたしの夢は外務大臣。世界との関わりを通して日本の文化を磨き、誇り高い国にしていきたい。

よく、政治家になりたいんです、というと、大抵どんな政策をしたいのと聞かれる。

正直に言うと、わからない。

大学で専攻していたわけでもないし、今もその知識はないと思ってる。

それに、今やるべき政策が果たして私が政治家になる予定でいる15年後以降に通用するかというとかなり怪しい。

ただ、政治家という役割は例え名は変わったとしても何十年後も同等の役割は確実に存在しているはずだ。政治は歴史の枠組みをを縁取るモノだからだ。

国家は常に政治とともに歩んできた。文化もそうである。人の集合が国を作る。

そしてその集合を形にするのが政治であると思っている。

 

 

。。まあ、私がどんなに政治を語ろうと、実際に知識がある訳ではないし、現実に日常との関わりも希薄であるために内容に厚みがないのは明白だ。

 

で、だ。政治家になりたい、これだけで大体の人間は私に関心を持つ。

まあ珍しいからね。

でも漠然とそう考えてる人は存外いるもんなんだろうね。

 

そもそもなりたいなら今すぐにでも目指せばいいじゃないか。

これも何度か言われた事がある。

しかし、それだけは絶対に嫌だった。

 

「世界」という言葉を英単語に置き換えた時、私は

world,community,それからidentityがあると思った。

この2つ目、コミュニティ。

ここでいうなら、政治の世界。

そこにはじめから入っていって、なるほど確かにその方が私は

いわゆる「政治のプロ」には近づくかもしれない。

しかし、今日の政治のプロ、それが果たしてこの社会で求められている者かどうか怪しいと考えている。

 

なるのであれば大義ある仕事と成したい。

だからこそ政治を外から眺める時間が必要と思ったのだ。

そして同じ生活者として暮らすべきだと。

だから私ははじめから一般企業で働く事を決めていた。

 

一般企業で働こうと思った理由はもうひとつある。

”学歴”のためだ。

学歴なんて関係ない、そうだその通りだとは思っていてもまだまだこの社会は学歴で

ピラミッドを形成している。それが現実だ。

数十年後は分からないが、おそらく大差はないと思う。

 

私の最終学歴は、地方の国公立大(これだけではピンキリだが伏せておく)である。

中途半端な学歴で国会議員の選挙に当選するのは困難であるし、たとえ当選できてもそこからの道のりは更に険しい。

学歴という潤滑油があるのとないのでは進み方が全然違うと思っている。

さて、世間から賞賛をうける程の学歴、日本であれば有名な難関私大(早稲田・慶応)、国立大(東大・京大)であると思うが、これにはいわゆる受験勉強が必須である。

よく比較される、日本と米国の大学の入学と卒業の難易度だが、入るのは難しいが、入ってしまえば卒業が容易なのは日本、入るのはそこまで困難ではないが卒業するのが難しいのが米国の大学だと言われている。

 

結論から言うと、私は米国の難関私大であるいわゆるアイビーリーグや州立大学のUCバークレー級の大学を目指している。

「級」なんていってる時点でミーハー心が丸見えなのだが、実際どの大学がどうのこうのという比較ができてない。

ともかく、一般企業にてしかるべき実績を上げ、日本を出て一流を目指す。

そして学問として政治あるいは法律を学び、本格的に政治家を目指していくという計画である。

 

留学をするのは、上に書いたように、

「学歴を上塗りするため」

「日本を外からみるため」

「学問として政治を学ぶため」

の3つの目的がある。

 

そして、その為に必須のスキルが英語と、学ぶ基礎力だと考えている。

先ほども触れたが私に大した学歴はない。

英語力もからっきしだ。

 

ここから、いわゆる一流を目指そうとしているのだ。

根本から変えて行くべきなのだ。

そしてその必須のスキルは20代の間に身につけようとしている。

 

英語力はTOEFLで110をめざし、学習の基礎力は読書によって身につけようと考えている。(読書については前回の記事)

 

今の英語力はどれくらいかというと、誰にも見られてないとたかをくくって書くが

TOEICで350程度だ。TOEFLではなく。むしろTOEFLは受験した事すらない。

そんなんで本当にやれるのかと聞かれれば、分からないと答えるし、

そんなん無理だよと言われれば、そうかも知れないと答える。

実際その程度の現実である。

しかし、やりきる。まずはTOEICで900をコンスタントに超える水準を目指す。

それからいったんは英検で1級を取得する。

そして本格的にTOEFLの学習をはじめてスコアを110に近づけていく。

ここまでを今から3年でやる計画でいる。

 

読書も同時にすすめ、まずは多読合宿により月10冊を読めるようにする。

それを1年〜2年続け、この量を3年以内に倍にする。年間でいうと200冊以上だ。

 

これは無理なんかじゃないと思っている。だってそういう人って実際いるでしょ。

生まれつきの能力の差はある、きっと。

しかし、その差を明らかに出来ないように、私が無理だという事を明らかにする事も出来ないのだ。

だから目指す。

 

政治家にはすこし回り道かもしれない。

でも、なる事が目的じゃない。

ちゃんと誰かの為になれる力が無ければ無意味だ。

叶わなくたって、目指す以上はそれが力になるのだ。

力は、愛すべき誰かの為につけるものであると思っている。

 

 

【まとめ】

20代を終えるまでに

・TOEIC900

・英検1級

・TOEFLibt110

・読書年間200冊、トータル700冊

 

 

追伸:意識高いってちょっと後ろめたいよね。

 

作戦!

どうも、ブログの作法など知りもしない私です。

 

そもそも、こうしてブログを利用しているけれども、自分の事をブロガーとは思っていない。私がもしそう思っているなら、アマチュアを含めたあらゆるブロガーさんたちに謝らなくてはならない。

 

しかしながら、このブログという形式を利用した私の思考の掃き溜めはどうやら

おおよそ2、3人の人の目にははいっているらしい。

いやあ、たしかにしびれるね、2、3人。プロのブロガーさん達が聞いたらどうだろ、

笑ってくれたらまだ良い方で、そんな話題を取り扱っていると言う事がブログをなめてるなんて説教してくれたらこれもありがたくて、まあ、こんな零細で自己満足の塊に関心なんて無いだろうってのがほんとのところだね。

 

とはいえ、私にとってはその2、3人が大きかったりする。

個人的には私は私を非常に気に入っているものだからさ、見てくれている人がいるのがしびれるね。

(いや、読んでくれてる可能性は実は低いってのは承知でね。)

Facebookみたいに個人を特定できない分偏見なんてないし、

twitterみたいに字数の制限もないし、フォロワーやフォローしてる人で推測もされないし。

誰でもない私であることの証明でもあるのだ。

 

 

さてさて、ブログに対して無知以外の何者でもない人間の推測の域を超えないうえに具体性にもかける話はおいといて、タイトルにそった話題に入るけれど、

 

私は10月6日からある作戦を実行する。

少し間があるのは、今はtoeicが28日にあるので、そこに集中してるから。

28日以降も英語の勉強は続けていくけど、とりあえずはひとつの区切りとして。

で、その作戦だけど、

名前をつけた。

 

「多読合宿!ー思い存分文字に溺れようー」

 

 

...いやあ、我ながら端的でわかりやすく何より痛々しいね。

何をするのかは書く必要があるのかって感じではあるけれども、1日中本を読む。

これだけ。

 

最近は確かにあんまり本を読んでないってのもあったけど、何で読書なんてありふれたことをわざわざ作戦名までつけて始めようとしているのかについて触れていこうと思う。

 

まず、前提として、私の向上心はかなり強い。

向上心だけなら全人類の上位5%、日本の上位1%に属している気概はある。

ところがどっこい、向上心だけで上手く行かないのは誰だって知っていることだ。

向上心と実力が相まって初めて成果になる。

このブログをはじめたのも、その向上心と実力の間にものすごいギャップがある事を自覚しているからだ。

大した事の無い経歴と無駄に高い目標(個人的には高いとは思ってないのだけれど)。

これを公言したところで、世間の目は冷ややかだ。

たちまち私は意識の高い人(笑)にカテゴライズされるに違いない。

いや、実際今の所はそうなのだけれど。

だから、私は誰も知らないところで私でいるしかなかったのだ。

いわゆる本物は他人の目なんて気にしないだろうし、こんな手段に頼る事も無い。

けれども、私はそうでないのだと、弱い人間なのだと知っているからこそ、

自身への意識付けも踏まえてこうして文字にまとめている。

文字にまとめる事への効果はどこかで書こうと思う。

 

というわけで、現状では実力が目標に追いついていない私が思いついたのが読書だった。

どんな目標であれ、読書が直接効果を出す事はあまり多くない。

しかし、この読書をする能力こそが、凡人かどうかを分ける要素でないかという仮説が浮かんできたのだ。

 

速読術というものがある。文字を図形として認識したり、視野を固定する、音声化しないなど様々な方法が流通しているが、どういった方法を取っているかわからないが

東大など一流と呼ばれる大学に入る人達はみな読むのが早いのだそうだ。

みんながみんなそういう速読のテクニックを使っているとは考えにくい。

おそらく、そもそもの情報処理能力が違うのだ。

例えば、絵本ならば誰でもすぐに読み終わるだろう。東大生とよーいどんで競っても大した差は出ないはずだ。

では論文など専門的な内容ならばどうか。

ここで圧倒的な差が出てくるはずだ。この違いは無意識に処理できる情報の違いにあると考えている。

 

英語でも同じ事が言える。

The guy wrote a book.

これなら誰でもすぐに読める。

 

では詳細を加えたこちらでは?

The tall guy who is well known as an actor wrote a controversial
book about the new regime of the country.

英語が得意でない私は、うーん、えっと...。となってしまう。

これも、一流の彼らなら難なくさらっと読んでしまうはずだ。

 

この英文で言えば、前提として、語彙、それからこういった比較的長い文章の構造に対する慣れが必要になってくる。

そう、「語彙」と「慣れ」。これが情報処理能力の差であるのだ。(と思う)

この2要素を補完する手段として、今回の作戦、「多読合宿」を実行するのだ。

これは情報処理という基礎力の養成を目的にしている。

基礎が無ければどんな効果的なやり方も身に付かない。

力こそが全てだと思う。

どんなに優れた人間性や考え方を持っていても、それを行使し実現できる力が無ければ無意味なのだ。

力が無くては誰も幸せにできない。自分すらも。

幸せが何であるかについても別で書きたい。

 

で、この基礎力養成だけれど、その日一日頑張っても何にもならないことは明らかだ。

これは継続して行っていく。こうやって、日取りを決めてやるのは、毎日本を読む、では意識的な読書が出来ないし、一度挫折するとその後の立ち直りが困難だからだ。

それよりもはじめは、1日を読書の為だけに費やし、かつてない程の読書体験を自分に与える為だ。

そうやって体験する事で自分の枠を広げる事が出来る。と考えている。

それから、マルコム・グラッドウェルが書いた天才!(原題:Outliers)

には有名な”1万時間の法則”というものが書かれてある。

これは桁外れの実績を生み出す、いわば天才は、その対象に累計1万時間を超えた時間を費やしている、という調査結果だ。

 

何かをものにするには、相応の時間を費やす必要がある。

これは技術習得の王道であると信じている。例えば英語でもそうだが、日本人の7割以上は英語を習得したいと考えているらしい。

ところが実際に英語を話す日本人はおそらく全人口の10%に満たない。

これはどういう事かというと、英語に捧げる絶対的時間が足りないのだ。英語と日本語は構造が根本的に異なっている為、言語同士で応用が効かず、習得に時間がかかるというのはよく知られた話だ(中国語で400時間、英語だと2,000〜3,000時間程度必要なのだそう)。途方も無い時間を前に、多くの人は習得に至る前にやめてしまうのだ。

 

話は逸れたが、読書にも同じ事が言えると考えている。

読書をしている全ての人が一流では無いかもしれないが、一流と呼ばれる人々は往々にしてこの読書を「習得」しているのではないか。絶対的時間を費やす事によって。

これが私の仮説の中心だ。

つまり、読書を真に「習得」することによって、情報処理の基礎力が上がり、その他の学習効果を加速度的に向上するのではないか。という事をひらめいたのである。

これを思いついた時にはまだなにもしていないにも関わらず嬉しくて飛び跳ねる勢いだった。何となくやらなければと思っていた読書に思わぬ動機付けができた事も嬉しかった。

ただ、私がこうして、読書が絶対いいよ!なんて例えばFacebookで言ったところで

そんなこと知ってるわ、とか、はいはいそうですかなんて言われるか、無視されるかだ。

だって肝心の結果が出ていないのだからね!

という訳で、その効果を私が実感してから、ドヤ顔で語ってやる事にしましたよ。

まあ、それくらい自信はあるけど、決定的ではないなあ、っていう。

つまりは自信がないのね。

という訳で、どういう風に進めて行くのかをいかにまとめました。

ここにたまたま訪れた2、3人の方々はせっかくなので試してみては?

もちろんそれで時間が無駄になっても責任とれないですけどね。

 

<読書合宿(1回目)>

日程:10月6日(月)

時間:午前10:00〜午後20:00

(途中1時間程度の昼食休憩あり)

場所:近所の市立図書館

内容:ひたすら本を読む。

持ってくるもの:kindle、本(ジャンル問わず読みたいもの3冊程度)

目標:5冊を読了すること。最低3冊

備考:携帯、PCは持ち込み禁止。あくまで合宿に来ているという事を理解すること。

 

 

という内容でやるつもり。

当面は、同様の内容を隔週で行う。5冊読み終わらない場合は次の合宿までに読む。

これで、月10冊。年間120冊をこなせる。

慣れてきたら極力毎週行っていく。そうして年間200冊のペースを作っていく。

年間200冊が恒常的に行える段階になると、情報の選別能力も磨かれていくと睨んでいる。不必要なものは学ぶ必要は無い。

 

やろうとしているのは、平日は英語、休日は読書という生活だ。

30代に入る前に基礎を固める。

その基礎って言うのが、英語(世界とのコミュニケーション)と読書(情報処理能力)だと思っている。

 

これもひとによっては違うかもしれない。違うと思うならそれでいい。

そうだと思うなら、一緒に頑張ろう。

 

この合宿の記録や、英語学習の成果はここに書いていくつもりでいる。

そのうち今の私がどれだけ実力がないのか、それに対して目標がどの程度のものなのかについても書こうと思う。

 

しばらくは(もしくはずっと)個人を特定されないだろうからね。

それでは。

そして私は英語を選んだ。

ご無沙汰である。

 

この”ご無沙汰”という言葉のなんと仰々しいことか。

単に久しいだけではない厳かさがある。

 

さて、このブログのことなどすっかり忘れて一体何をしていたのかと言えば、

まさに日々に殺されていた。

忙殺だ。

 

まず環境に順応するのに時間がかかった。

それから、その過程で目的を見失っていた。

あれもやんなきゃ、これもやんなきゃ。

そんな状態で疲弊しきっていた。

 

このままではさすがにまずいと思い、

そういう、迷走をリセットして、真に取り組むべき課題について考えた。

 

結果、どう考えても英語だった。英語に一点集中でフォーカスして取り組む。

これが現在私が抱える課題だと判断した。

 

理由としては、

・英語は思い描く将来において不可欠なスキルであり、同時に単なるツールでしかないこと。

本来やるべき学習が出来る体制ははやいうちに作っておいた方がいいだろうということ。

・数年後に結婚しようとしているため、独身のうちに。

離れて暮らしているうちに身につけてしまおうということ。

 

この2点。

 

それから、英語の学習をとおして学ぶという行為

における基礎を作っておきたかったということ。

 

 

約3ヶ月後のTOEICを受ける事にしている。

TOEICでは英語力ははかれないとか、日本と韓国ぐらいしか受けてないとか

確かにある。けれども、そこじゃない。これからの足がかりとして、ここで

ハイスコアを出す事は前提条件であると思うのだ。

これを乗り越えられなければ、今後立ちはだかるさらに高い壁は超えられはしない。

逆に結果が出たならば、自信になる。

周囲の目が変わる。それを以て更なる自信となる。

盲信してよいのだ。自身の成功を疑わない事。それが最重要の用件ではないか。

反省文

反省することばかり重なる。これが人生なのか。

 

名前は忘れた。今日本屋で立ち読みした2冊の本が真っ当過ぎて

思わず今の自分は反省するしかなかった。

 

目的を目的にしている時点でダメなのだ。

結果ばかりを求めて学習自体にのめり込めていないから結果がでない。

そういった逆説が起こっていた。

結果(例えば試験のスコアなど)は、学習の副産物だ。

例えば、toeicで高いスコアを出す事は、英語という言語を身につけ、

グローバルな環境でのコミュニケーションする力をつけることの過程でしかない。

 

自己啓発の悪しき部分は、それがたとえ正しくとも答えを提示するところにある。

答えがわかっている時点で、目的が目的になってしまう。

瞑想もそうだ。

 

瞑想の効果として、精神安定、記憶力向上などあるが、それらはあくまでも副産物であり、本来は自我と向き合い、悟りに至るための修行である。

副産物だけをを求めても、本来の道筋をたどらないと効果はでないのだ。

 

私は、目の前の状況を改善する事しか考えていませんでした。それが段階であると本気で思っていました。

 

違います。大きな目標でさえ、それは自分本位なものである時点でかないません。

何のために学ぶのか。何のための行動、工夫であるのか。

また振り出し....。

それも良いでしょう。失敗こそが人生です。

 

”15分から20分”という時間について

いわゆる「意識の高い学生」からそのまま抜け出すことなく

その道を邁進して今や「意識の高い会社員」にランクアップ?したのがこの私である。

さて、この意識の高いという表現には当然ある種の皮肉、悪意が込められている。

 

想像には難くない。というかもう既にかなり流通している表現であると思う。

実力の伴わない意識の高さ、そのギャップの滑稽さを表現しているのである。

 

さて、社会人は学生よりもこの傾向にある人種が多い気がする。

こういった人たちはまた別の呼び名として

ノウハウコレクターと揶揄されることもある。

 

実力が無いくせして、もっといい方法はないか、もっと楽な方法は、

効率的な方法は...。といつまでも実行もせずに自身の行動力のなさを

棚に上げてノウハウに逃げるのである。

 

だから私はノウハウなんて胡散臭い言葉が嫌いだ。

これはある種自己嫌悪に近い。私もそうだった時期があった。

ひたすらに方法論に溺れる。

自己啓発書やらライフハックの類いの記事を読み漁った。

 

それも私の人生であるし否定しようとは思わない。

その時間の中で見えてきたものもある。

誰もが語る本質的な部分と、状況や運に任せた偏ったテクニック。

後者がほとんどであるから胡散臭いのだ。しかしその中に確実に本物は

存在するのだ。

 

さて、ここまでは前置きなのだ。長くなってしまった。

私が、見てきた”ノウハウ”の中で、今でも実践しているものがある。

・瞑想

・仮眠

・ランニング

である。

これらは、自己啓発の分野で取り扱われることが多い気がする(もしくは私の読むものが偏っていただけ?)。

けれどもその割に方法論もくそも無いようなものだ。

やり方がどうこうではなくて、やるかやらないか。

それにどの方法も科学的にその効果は証明されている。

 

という訳で、部屋の乱れは心の乱れ、

心の乱れは日常の乱れ、日常の乱れは...。という具合に

心身のに余裕を持たせるべく上記の3つを実践しているのだが、

この3つには共通した時間認識がある。

タイトルにある、”15分から20分”だ。

例えばランニングにおいてエネルギーの燃焼元が糖質から脂質に切り替わるのが

この時間だし、仮眠であればこの時間の仮眠効果が最も高く、これ以上の時間

は本格的な睡眠に入ってしまうので逆に頭がぼーっとしてしまうということだ。

瞑想に関しても、初心者向けとしてこの時間を目安としている記述は多い。

 

この時間が意味するものは何だろうか。

その答えはもちろんそれぞれの分野において書かれているが、

共通して言えるのは、体がその”モード”になる為に必要な時間である

ということだろう。

 

ランニングの目的はおおよそ有酸素運動効果、もっと言えば脂肪を減らすためのダイエット効果だ。

仮眠と瞑想は目的は似ているが、集中力向上効果であったり、疲労回復効果出会ったりする。

何にせよ、何かの状態に自分を持っていく上でこの時間感覚を念頭においておいた方が良さそうだ。どうやら。

 

例えば作業興奮という言葉がある。

単純作業をタスクの先頭に持ってくると、この作業興奮の効果により

集中力の高い状態で本来やるべき課題に取りかかることが出来るということだ。

おそらくはこの考え方の中でもこの時間概念は存在する。

すなわち、いわゆる仕事モードに自分を持っていくには

15分から20分で完結する単純作業を自分に課す方が都合がよいのではないかということだ。

 

これもどことなくライフハックのようでいささか筆を進めるに躊躇してしまうが、

この時間はおそらく、目は光を電気信号に変換し、心臓は全身に血液を循環させるなど人間がもつ身体の特徴であるように思う。

15分で人生が変わる!なんて書いたらものすごくあからさまにアレ(笑)な表現に

なってしまうが、

たとえ人生が変わらないにしろ15分YouTubeの関連動画を渡り歩いたり、twitterでつぶやきを追ったり、よくわからない魅力的なバナー広告を踏んだりするよりはずっと生産的なのでは無かろうかとは思う次第である。

 

 

このブログの目的について

そうだった。

 

このブログを始めたのには理由があった。

いや、もちろん何となく始めたわけではなかったが、最近書かなくなっていたのは忙しさもあるが、書くネタがなかった。

すなわち論がまとまってなかった。

つまり、やっぱり無意識のうちによそ行きの言葉を紡いでいたのだ。

そうならない為に匿名性の中でのブログという形式をとったのに。

 

誰かに見せようとするからこうなるんだよなあ。

 

 

さて、本題。なぜにこのブログを解説したのか。

私は傷ついた。本当につまらない、どうしようもないことで。

facebookという圧倒的なSNSがある。

そこでは、共感が通貨となり、お互いに価値を交換し合っているが

私には望んだような共感が得られなかった。

つまりは、世の中に嫉妬したのだ。

どんなに価値観を述べても、世に反応を求めても、

本意のわからないいくつかの”いいね!”だけが加算されていく。

 

 

表面的には大衆に迎合するなかれと息巻いていても、認めて欲しかったのだ。

自分にとって価値のある人々に。

SNSにはそれらが集まりすぎている。

だからこそ私は傷ついたのであった。

 

傷つくくらいならやめればいいのだが、それでも価値観の共感、羨望を望んでいた。

 

匿名であれば、それが言い訳になる。

決して私が認められていない訳ではない。

それに、匿名であることでフラットに価値観を評価される。

そう期待して、本当に望んでいる生き方、大きな価値をおいている物事について

周りの目など気にすることなく自由に書きたい、そう思ったのだ。

 

 

決して悪意に満ちた (笑) に屈せぬよう。

 

 

 

 

或る夜の会合にて

本日私が参加したのは、私の会社から自転車で30分(私の移動は通常自転車である)、福岡の中心街にある、とあるバーで行われる立食形式のイベントだった。

 

元来人見知りとして生きてきた私はやはり楽しさを見出すことはできなかった。

もちろん嘘のない、いい人は多く参加している。さもなければ参加する道理はない。

そもそも私に悪意に満ちた人間は近づいてこない。これはあくまで経験則だが。

 

とにかく、人と新たに関係を築くのが面倒なのだ。

面倒という言葉は悪質である。その一言で全てを否定する。棄却する。

しかし、やはり面倒であるのだ。

 

組織が同じならば話は変わってくる。複数回にわたって関わることにより相手の人間性もいくらか分かってくる。情もわくというものだ。

しかしながら、今回の参加者は今夜が初めてというものも何名かおり、出会うこと、関わることに意義を見出しているのだと思えた。

こうした無差別なイベントにおいて人脈を形成しようと思うのであれば、積極的に自ら参加し、さらに話題を持ちかけるという大技を何度も繰り返してゆかねばならない。非常にエネルギーが要る。

これが何かテーマがあるのならば話は別である。

誰々の音楽を聴く、そして語る。

何々の映画を見る。そして語る。

人との関わりとは言語によるコミュニケーションに依存するものが多い。

そんななかで、ざっくばらんに集められた人間がすぐさま打ち解けるなんていう道理が全く持って見当たらない。

もちろん当方いっぱしの社会人である。分別を持って存分に笑うし、頷く。

対価を支払った見返りが、まさか表情筋の品質向上なのだというのだろうか。

 

出会うことに価値はない。関係することに価値があるのだ。

関係は初対面ではほぼ発生しない。何度も日をまたいで顔を合わせて初めて

関係が生まれる。相手が自分の世界の住人になる。

 

このように、今回においても何度か参加できるのであれば、関係していきたい人は出てくることだろう。主催者側もそれを望んでいるとは思う。

 

しかしながら、私はどうしても勘繰ってしまうのだ。

どうしてこんなに生産性にかける会合に皆満足面で参加し、さらにメインであるはずの

洋菓子にはろくに手もつけず、ただただ世間についてのしゃべりを繰り返しているのだろうと。

こうしたものに参加するということに対してのドヤ顔が垣間見えるような気がしてしまうのだ。

 

とはいえ。

そんなくだらないことに思考を運ぶことに時間を割き、何でもかんでも意味を求めてしまうのは、それこそが生産性なんて皆無であり。

精神的な豊かさなんて持ち合わせないものの典型じゃないか。

おいしいものはおいしい。

楽しいものは楽しい。

好きなものは好きだ。

それでいいじゃないか。

 

なんともくだらない人間に仕上がってしまったものである。