二兎を追い、二兎をも得る

日常は無常。心は満腹を知らず、醜くも大衆の亡霊を頬張るばかりである。

勉強と学びと訓練についての手引き

勉強、学び、訓練(練習)。これらの言葉が違っているのは何となくはわかっていても、実際に生活の中で行動として使い分けている人は少ないんじゃないかと思う。

 

ここについて最近何となく感じているところがあるので、まとめていく。

 

最近ようやく英語が理解できて来た。まあ、前に書いた記事にあるようなストーリーには程遠い感じでしたけども。確実に言えるのは、やった分だけしか身につかないということ。英語が普通の人よりもずっと苦手な状態から、逃げながら何度も向き合ってきた。またお前か、また逃げるのか、これをずっと繰り返してきた。それではや数年。ようやく人並みになってきたと思う。

 

一方で、得意だと感じていたものは徐々に武器になってきた。昨年、会社の研修でアメリカに行ってきたが、180人の対象者に対し、参加できるのは20人ちょっと。そんな中、レポートで評価していただき、総合点数一位で通過したらしい。

これにはそれ相応の準備をした。課題になっている、有名だがその頃の私には難しいマーケティングの本。ひたすら読み込んだ。対象者の中でも最も若い部類だったため、上の人たちに勝つには、圧倒的にやりこむ必要があると思った。レポート提出に与えられた約1か月の中で、はじめの2週間は内容を理解することに費やした。特に最初の1週間のうち5日は1日1回読んだ。もちろん、難しいし、それなりにボリュームのあるものだから、時間はかかる。平均して1周読み通すのに5時間以上はかかった。

4時半に起きて、3時間読んで出勤。昼休みにも多少読んで、帰ってきたら、夕飯を食べながら、読み終わるまで続けて、を繰り返した。

はじめはぼんやりしか理解できなかったが、3回を過ぎたあたりから、全体の構造が徐々につながって見えてくるのを感じた。5回目になると、「あ、これって、誰々の何とかっていう理論と本質は同じだな」とか、「ここの部分はうちの会社にも当てはまりそうだな」とか、本の外側の世界とつながっていくのを感じるようになった。そのあと、プレゼン資料のコツを一通り調べて、理解していった内容を当てはめていった。その頃は自分のPCに提出に指定されていたパワーポイントが入っていなかったので、ネカフェで二晩通して資料を完成させた。資料を作るときも都度読み返していたので、最終的には8回程度読み込んだとは思う。それからもうすぐ1年経つが、今でも人に解説できる程度には理解をしている。

ここまでやりこんでの、それなりの結果だったと言えるんじゃないかと思う。

いろんな人が言っているけれど、社会人になって、改めて、勉強は一生涯続くのだと思い知らされる。

 

だからこそ、圧倒的にやり込んでいく必要があると感じる。

そして、そのやり込むにあたって、勉強と学びと訓練を使い分けていなくてはいけないと思うのだ。

 

違いをまとめると

勉強=能動的な知識習得

学び=何らかの事象を受けて知識とすること

訓練=同じことを繰り返して身に着けること

ではないかと考えている。

 

簿記の勉強をする、英語の勉強をする、などというが、これらの勉強の最終目標は知識ではなくスキル(技術)習得にあるのではないか。

 

スキル習得に当たって、勉強で得た知識を使えるように変換しなくてはならない。それには訓練という段階を踏まなくてはならないと考えている。

 

エクセルがそうだった。入社時、全く使ったことのない状態だったが、エクセルを使い倒す部署に配属になったため、毎日10時間程度エクセルを触っていた。1年経った頃にはかなりの速さで処理できるようになったし、少し複雑な数式なら組めるようになった。まあ、私なんかよりも専門的に使いこなす人がいるかもしれないが、別にそこまで極めようとは思わない。部署が変わった今は十分業務上役に立っている。

 

殆どの人にとっての簿記や英語もそうだろう。きわめて専門的な分野までやろうとは思っていないはずだ。でも、だからいつまでも習得できないのではないか。

それは、中途半端に高いレベルのものの”勉強”を続けているからにほかならない。

訓練をしなければスキルは身につかないのだ。

もちろん、まずは勉強からだ。しかし、ここのハードルを上げすぎてはならない。最低限の知識を身に着けることを念頭に置く。本などがいいだろう。これは、繰り返して読むべきだ。繰り返して読めば、先の私のレポートのように、だんだんと情報がつながって来て、立体的になってくる。そうしたら、あとは練習あるのみだ。英語なら、短い文章をつくる、簿記なら、練習問題を解く。これを、ひたすら繰り返すのだ。ここで、自分が苦手なものや、得意なものが見えてくる。これが、学びだ。学びは結果を受けることだ。上司から理不尽な理由で怒られた。学びは、上司が過程を見ずにあくまで結果で物事を判断するということだ。知識習得過程で、訓練課程で、学びが積み重なっていく。これが結晶となり、自分だけの知識やスキルになるのだ。

 

ミニマムのスキルが身につけば、それを足掛かりに、わからない部分は調べながら結晶を大きくしていけばよい。そうすれば、必ず目的地にはたどり着ける。いつまでも説明書を読んでいる時間はない。伝説の武器は、村人がヒントを持っているのだ。まずは旅に出ることだ。

 

とまあ、そんなことを考えた。

 

とはいえ、そんな私が英語できてねーじゃん。となる。至極もっとも。だから、やる。英語を使えるレベルまで引き上げる。そのあとはこれは未開の地だが、プログラミングだ。これをやろうと思ったのには理由があるが、それはまた今度。

では勉強、学び、訓練、学びでやっていきます、と。

拝啓。春雨に濡れる君へ。

雨が続いて気が滅入る頃だろう。そんな日々はどうだろか。順調かい?

知っているさ。「順調だ。」とは言えないよな。

 

そりゃあ、挫折を繰り返しながらもなんとか続けてきた英語は、

3月15日のTOEICで420だった。

半年もたって5しかスコアを伸ばせなかったんだもんな。

それから、君は半年で10キロ近く体重を増やしたよな。

なにより、せっかく咲かせたチューリップも1週間ももたずに枯らしてしまった。

 

はっきり言うけど、これを順調というなら楽天家を通り越して阿呆だ。

 

先に正体を明かしておくが、私は君だ。

誰よりも君を理解する君自身だ。

 

ただ違うのは、君は今まさに萌え盛る春を生きているのだろうけれど、私が過ごすのは2015年の冬。もうじきに年が開ける。

 

つまり。

私は、君であり、そして君の前に無限に広がる可能性のひとつだ。

 

君が生きる春からさらに半年過ぎた今までの間に一体何があったのかを伝えようと思う。

 

君が今決心しているように、私はこれまでの経験と、収集した情報から得た価値観と、それから英語学習において最も信頼しているある人からのメールで、再び本格的な英語学習を開始した。

1日当たり6時間弱。実際には上手く時間が使えるようになるには時間がかかった。

なにせそれまで時間をあらん限り放し飼いにしていたのだから。

6月28日にTOEICをうけたよな。

約3ヶ月。600時間に迫る学習量を担保に挑んだTOEICは、これまでとすっかり感覚が変わっていた。

もちろん、たった3ヶ月で英語なんて身につかない。

まだもやがかかっているような状態だ。

しかし、420という屈辱的なスコアをとった時に感じた、

「これから劇的に変わっていくかもしれない」という予感は間違ってはいない。

具体的にスコアを書くのはよそう。私は単なる可能性の一つだ。

君がどう取り組むかによっていくらでも信憑性は変わるのだ。

 

ただ、確実に言えるのは、これまで英語の落ちこぼれだった君は、

日本において英語を話題にする権利を得た。それくらいのスコアだ。

 

それから、もうひとつ。

6月のTOEICではまだ年間の目標である900には到達していない。

それを到達するのはもう少し先だ。9月なのか、11月なのか。それとも。。

それも君次第だと言う他ない。

ただ、可能性の一つである私に限って言えば、11月のTOEICにて目標を達成した。

期限ギリギリは君の趣味なのかい?

 

いまは英検の情報を集めている。

君の計画の通りだよ。

英語を学ぶことは随分と楽しさを感じられるようになった。

簡単な記事なら問題なく読めるし、ポッドキャストも理解できる。

 

しかし、君にとっては夢のような私でも不安は取れやしなかった。

この程度の実力で、本当に留学なんて、英語での勉強や研究を何年もやれるのか。

今のペースで大丈夫なのか。とかね。

 

ああ、あと仕事の話をすると、

転勤の話が来たのは予測通りしばらく後だったよ。

久々に九州に戻ってきた時は会いたい人の多さにスケジュールがうまく回らなかったくらいだ。

アメリカにも無事行けた。

英語の学習がそれなりには役にたったのかなと思う。いい練習にもなった。

ただ、これに参加するためにまたペースダウンしちゃったんだよな。

わかっているとは思うが、遅れを取り返すのには相当の巻き返しが必要になる。

ただでさえ遅れているわけだから、基準を超える努力をし続けなくてはならなくなる。

両立を習慣とすることを早めにやっておいたほうがいい。

 

まずは、今の習慣を応用して英語をやりこむ生活を手にいれる事だ。

そして、その時間を必要によって内容を更新していく。

その習慣の汎用性を使えるようにするためにも、1日6時間の英語学習習慣を4月中にはつけたいところだね。

仕事が基本的に14時間くらいあったとしても、やりきるべきだし、

それがきついなら、それを例えば10時間に短縮する努力は必要だと思うな。

 

ともかくだ。君の比較的近い未来から言わせてもらうと、私は、君が今これを読むその時から作られている。

君が本当に私かどうかは君が証明したらいいんじゃないかな。

 

健闘を祈る。誰より君を信じているよ。

 

追伸

たまには体を動かしたほうがいい。

わたしは休日の英語の合間に走って君の体重より8キロくらい少ない状態で維持できているよ。ほら、思い出してごらん、「飽食は敵である」だろう?

 

いざ、明日へ、一歩。

どうもブログの勝手がわからない。

まあ、たいしてわかろうとしてないのだと思う。

だって、本気でやろうとしたらもっとずっと調べるし、吸収するしさ。

 

なので、記事を書くのもこれくらいの頻度でいいし、

アクセス数も月間3人とかだったけど、そんなんで全然いい。

 

その匿名にして、開かれた環境こそが求めていたものなのだから。

 

とはいえ、こう言った形式の文章を随分書いていなかった代償は大きい。

書きながら自分の表現がシュリンクしてしまっていることを痛感する。

自分の前回までの文章にいくらか感心してしまったほどにはね。

 

さて、前置きが長くなったけれど、明日TOEICを受ける。

前回の結果は415だった。あまりにひどい。

 

そして半年たった今どう変わったか。

正直なところ、自信は、ない。

手応え及び結果はまた書こうと思う。

 

僕がよくもまあ、こんなご身分でたいそーえらそーに言ったこと。

どうも。

 

最近、就職が決まったアルバイトに対して私が話したことを書こうと思う。

なぜなら、話したことがそっくりそのままブーメランみたいに私が心得ておくべきことだったからだ。

 

私ー就職きまったんだってね、おめでとう。

 

アルバイト(ア)ーありがとうございます。

 

私ーこれで社会人になってしまうんだねー

 

アー緊張です。

 

私ーじゃさ、社会人になるにあたって知っておいて欲しいことを言うね。

君がこれから入社する○○だけど、数十年後には多分なくなってるよ。

もちろんそんなこと実際数十年後になって見なきゃわかんないけどね。

でも、世の中の会社のほとんどはなくなってしまう。

倒産してしまったり、吸収されたり。

シリコンバレーっていう土地がアメリカにあるんだけど、そこでは九州一の都市である福岡の全企業とほぼ同じ数の企業が生まれて、そしてそのほとんどは3年以内になくなってしまっているんだって。

つまりね、まず第一に会社はなくなるもんだと思っておいて欲しい。

じゃあ、会社がなくなったとして、奥さんと子供がいたとする。

もちろん困るよね?

 

アーはい、そうですね。。

 

私ー困らないためにどうしたらいいかっていうと、自分が強かったらいいんだよ。

強いって、単に腕力があるとか、頭がキレるとかではなくてね。

誰にも負けない自分だけの何かを手にいれるってこと。

そうしたら、君を欲しがる人なんてわんさか出てくるんだから。

社会人になるってことは、会社っていう組織を通して、そうやって自分を磨いていくことだと思うなあ。

 

アー勉強になります。

 

私ーあ、いや、偉そうにいってるけど、俺もまだまだだからね、へへ。

 

アーどうせ働くなら、上の人間になりたいと思っています。

 

私ーお、いいね。じゃさ、上の人って、どういう人がなると思う?

 

アー人の話をしっかり聞けるひと、とかですか?

 

私ーそうだね、それはすごく大切だね。上の人たちはみんなその要素を持ってると思うよ。で、俺はね、こう思うの。上の人ってのは、上の人になることを当然って思ってる人たちがなるんじゃないかって。

こうなりたいなあ、こうだったらいいなあ、じゃなくって、え?それって当然でしょ?

っていうくらいの人じゃないと上には立てないんじゃないかなって思うのね。

 

アーああー。。

 

私ーあ、そうそう、7掛けの法則ってのがあってね、これ俺が名付けたんだけどさ(笑)、ほんの一握りの天才を除いて、多くの人の願望は叶わないと思っているのね。

それはいろんな理由がある。急な予定とか、事故とか、自分に対する甘えとかいろいろ。

でも、目指したからには、その70%くらいは達成できるんじゃないかって。

そう思ってんのね。

これに関してね、俺の大学受験の時がまさにそんな感じだったんだけど、

俺が高校3年生のとき、すっごく成績悪くて300人いる学年で、286番とか確かそれくらいだったのよ。ひどいでしょ?

だから先生からも、国公立の大学は厳しいんじゃないかって言われててね。それがすっごいくやしくって、いい大学に入って絶対見返してやるって、それまでろくに勉強なんてしてなかったくせに、なんかすっごい高い目標つくって勉強したんだよね。で、結局その目標にした大学には行けなくて、そこそこの公立大に入ったんだけど、気づいたら学年で80番くらいに位置してたの。200人ごぼう抜きしてたのね。

それもきっと、先生の言葉を真に受けて、とりあえず国公立入れるようにってやってたら多分国公立自体どこにも受かってないと思う。

要はね、なんだかんだちゃんとやれば10割は無理でも7割は叶うんだから、自分が思ってるよりうんと高い目標を立てて、それに対してどうやったら達成できるか考えたら、当初の目標は確実に叶うよってことね。

言ってること、わかる?

 

アーはい、心にひびきました。

 

私ーそれは、大げさでしょ(笑)。とにかくね、目標は大きく持って、自分を強くするんだよ。ごめんね、ながくなっちゃった。

 

アーいえ、ありがとうございます。

 

 

 

 

ーーー

っていう感じの会話だったんだよね。

実は、この他にも、努力ってどういうことかとかいろいろ話してる。

まあ、全部どっかで聞いたような話なんだけどさ。

 

でも、そんだけ、成功に対して何やったらいいかはみんな知ってんだよね。

まずは、強く思うこと。

心から目指したいと思える高い理想を描くこと。

 

それから、それに対してマイルストーンとなる道筋の中の節を描く。

そして、それぞれに対しての行動を計画していくのね。

 

で、ここからが重要。目標を立てるところまでは、自分の感情だったり、精神的なものによるところが大きいんだけど、それを頼りにすると、行動がついていかなくなる。

 

目標達成に必要不可欠な要素は、継続と反復。

それをやる気なんていう心許ないものに期待してしまうから、行動にムラがでる。

だから継続もまともにできやしない。

 

心をたぎらせて理想を描いたのなら、そこまでの道のりはひたすらに無感情で歩まねばならない。非人情で、淡々と、リズム良く。

そういうとき、ひとは、ひとりだと知る。

もちろん、一人じゃないさ。家族がいる、友達がいる、恋人がいる。

ただし、自分の道を歩いて行けるのは、他の誰でもない私なのだと知るのだ。

 

人の意見なんて、評価なんてくそくらえ。だ。

なーんてよく聞くけれどね。本当にそうかしら?

 

ご機嫌麗しゅう。

 

人の意見、評価は一定の論理性と、主観やバイアスが介在していると思っている。

 

有名な話で、フォードの顧客に対する話がある。

”顧客に何を求めるかを聞けば、もっと速い馬をというだろう。”

これって、顧客は何にもわかっちゃいないよっていう話なんだけれど、

これは、フォードが自動車という常識外れの狂人的な考えを持っていたがための話で

今を生きてる彼らからすると、速い馬こそが最上の移動手段だったわけね。

 

科学技術の進歩により、想像を超えた日常に我々はいるわけだけれど、

いったい誰がそれを知っているのさ。

いったい誰が、グーグルのここまでの発展を言い当て、

いったい誰が、世界のソニーの衰退を想像し

いったい誰が、今日の情報に埋もれた世の中を想像できたのだろうか。

かつての未来が具現化した現在は、ほんのわずかな狂人達が想像した未来だ。

 

ほとんどの人は気付かないし、望んでない。だってそんなこと思ってもみないでしょ?

だって、刀を提げて、ちょんまげ姿の彼らからすると、現代社会がいかに非常識であるかっていう話だよね。

でも、僕らにとって今こそが常識なのね。ちょんまげを誇らしげに街を闊歩しているおことがいたら、変な人、あるいは何かのコスプレイベントがあるのか、時代劇の撮影なのか、いずれにしても日常とは異なるものだと認識する。

その認識は、非常に論理的で、演繹的だ。

 

そういうところで、非常識な常識を想像する力が未来を切り開いていくのだと思う。

ただし、繰り返すけれど、そんな想像は狂人以外の何物でもない。

少なくとも侍の格好をしてセンター街のど真ん中を堂々と練り歩くくらいの覚悟はいるよね。

 

で、タイトルに戻るけど。

人の評価はくそくらえだ、っていうのは単なる自己の正当化じゃないのか。

非常識を追求できるほどのものなのか。

プライドと混同していないだろうか。

本当に、良識に満ちた論理的な大衆と、常識と対峙していけるの?

地位とか、名誉とか、当然だけど、ないよ。

実績がでるまでは。

 

要はね、勝ちゃいいんすよ、勝ちゃね。

勝つために必要なのは、気持ち?志?

違うでしょ。

もちろん、前提として、ぶれない芯は必要。別に志とかって言ってもいいけど。

必要なのは、気持ちなんていう波があって信用できないもんじゃなくて、

例外のない淡々とした、一貫性のある行動。

 

やる気だけで世界が変わるんなら、そんな信用できないクソみたいな世界はさっさとなくなればいいでしょ。

実際そんな簡単にできてない。

本当の非常識は気が遠くなるような先の先にあると思う。

気持ち云々だけではたどり着けないくらいのね。

気持ちだけで何とかしようとしてるんなら結局人の評価に振り回されて終わっちゃうね。ひゃくぱー。

”楽しさ”という魔物

どうも。最近は意識たけぇ〜な記事ばかりだったけれども

実はそういう自分が追いついてなかった。

むしろおおよそ人らしい悩みを抱えてなーんにも手付かず!

今日はそんな、普段誰しもが立ち止まり頭を抱える、日常のお話。

 

僕は、お祭りが大好きだ。

人混みは気持ち悪くなるからダメだけど、あの震えるような空気がなんとも言えない。

同じ理由で、学生の頃は運動はそこまで得意でなかったけれど、体育祭も好きだったし

文化祭も好きだった。気持ちが浮つくのが自分でわかる程にはそれらを愛している。

 

ただし、同じくらい、それらが苦手でもあるんだ。

 

何故か。

それは、あまりにそれらが楽しくて、愛おしくて、

終わった後の喪失感に毎回毎回と苛まれるからだ。

おおよそ、そういった楽しさは人に起因しているように思う。

友達とこれでもかと言うほど盛り上がった話を終電云々で遮られた時同じことを思う。

 

楽しいは毒だ。

甘美で、蠱惑的な毒だ。

頭が蕩けてしまいそうだ。

実際蕩けている。だから、辛いのだ。

 

楽しさなど知らなければこんな思いはしなくて良かったのに。

”祭りの後シンドローム”に蝕まれながらいつもそう思っていた。

それでも人は、楽しさに手を伸ばし続ける。一時の快楽だとしても思い縋るのだ。

 

思うに、”楽しい”と”幸せ”は似て非なるものではないか。

同属ですらないと。

幸福になりたい、それはすべての人に当てはまる願望ではないかと思う。

そして、私を含め大部分の人が幸福と勘違いして、全く性質の異なる快楽を求めるのではないかと思っている。

 

いや、楽しいというのは、素晴らしいことだとは思っている。

ただし、それが自発的なものであれば。

 

enjoy

という単語は、「〜を楽しむ」という意味だが、この単語の構造がen-joy、

すなわち、”楽しむということをさせる”となっていることから、目的語と主語を入れ替えて

”〜が楽しませる”とも言える。

 

こういうことだ。

楽しいっていうのは、自分でない他の何者かに(無理やり)楽しいと思わされているのではないか。

それが自分に由来のない不自然なものであるがために、体はそれを毒として扱うのではないかと思う。

 

 

 

説明がくどくなってきたのでこのへんにしておくけれど、

言いたかったのは、楽しい事は楽なことでもあるよってこと。

楽して手にしたものは、すぐに消えてしまうからね。

苦労して手にしたものだけが自分のものとして残り、力となる。

その力で得られるものこそが幸福なのではないかと思う。

誰かに楽しませられるだけの人生はやめて。

同じく誰かを楽しませて、苦しめるのもやめて。

愛を持って、力をもって、幸福をおすそわけしましょ。

 

 

なーんか、幸せとか幸福とかいうと胡散臭くて嫌なんだけど、

まあ、それ以外の表現を今のところ持ち合わせてないからしょうがない。

 

とまあ、私が最近身をもって感じたことを書きました。

だれでも当てはまることはあるはず。例えばあの子と喋ってるとドキドキ楽しいなあ、なんて。

でもそれ、毒だからね。今が楽しい分、めちゃめちゃきついのが待ってるからね。

 

私はなんとか克服しました。

私を保てたのは、侍になる決心と、素直でいようとする心でした。

振り出しにもどった感じですが、これもまたひとつの学びかなあとは思っています。

それではごきげんよう。

経過報告-9月toeic結果

どうも。

 

9月28日開催のTOEICを受験したが、その結果が出たので記載しておく。

 

まず、私はこのTOEIC受験に向けて3ヶ月間ある方の指導のもとに英語の学習・TOEIC

対策をすすめてきた。

毎日3時間以上の学習を計画していたが、いろんな言い訳がその計画を阻止。

実際にはサボった日も相当数存在し、平均として2時間程度しかやれなかった。

 

まあ、結果に対する保険的役割としての前書きはこれくらいにして。

スコアが出た。

リスニング:225

リーデイング:190

トータル:415

 

前置きをしたが、サボったとは言え、平均2時間程度、3ヶ月で200時間近くは英語に触れてきたのだ。若干の期待もなかったとは言えない。

しかし、このスコアである。

例えば私がまだ学生の身分であればこのスコアに大した感想も抱かなかった。

所詮単位取得のためのものでしかなかったからだ。

 

そして今の私がTOEICを受験する動機は自身の単位とは全く違うところからきている。

その分今回の結果でかなりの焦燥を抱え込んでしまった。

 

というなんとも残念な結果を書いているのは、これも私の人生の軌跡になると思っているからだ。

 

受験勉強だってそうだった。

高校3年生に上がって初めての面談を受けた時、まさに学年の底辺に位置していた私が

その後およそ200人を抜き去って(とは言っても大した結果ではなかったが)センター試験でそれなりの結果を出した時もすぐには成績は上がらず、しばらくは下の方をうろついていたし、本当に上がり始めたのはかなり後半だったように思う。

受験生向けの自己啓発書の類にも、成績は二次関数ではなく、指数関数のような曲線を描くということがよく書かれている。

 

ここで、目標を下方修正したり、あるいは諦めてしまわない事だ。

ここ数年で私の将来に対する期待は数十倍に膨らんでいる。

これも出会ってきた色んな人や、本、映画の影響ではあるが、私はそれに感謝している。

そして、その反面としての自分の実力、現状と戦う羽目になることも含めて自分の人生に対して彩りを感じている。

けれど、それはうまくいかないこととの戦いであった。

そのうまくいかない事柄の多くが”続けること”に関することだった。

今この瞬間も数え切れないほど多くの人がこの問題と対峙していることと思う。

それだけ”続けること”が普遍の課題であるということだと思っている。

 

私も何度も何度も計画して、続かなくて、計画して、を繰り返してきた。

そうして今になって実感したことがある。

計画に対して上手くいかないことはいつだってある。それも頻繁にだ。

その度いちいち落ち込んでも仕方ないということだ。

やり続けると決めたら、やる気に左右されることなく、淡々と日々やるべきことをこなしていくこと。それが一番の近道であるということ。

 

私も気づけば、まだ若いとは形容されるけれども、それなりに年を重ねた。

それだけ生き続けてきた、ということである。

これだって立派な継続じゃないか。

そういえば今日、1日の大半を読書に当てた。

私が計画しているのは、月10冊の本を読みきること。

残り10日を残して私が読んだ本の数は実はまだ4冊。

このペースだと、今月の着地として、よくて7冊、最悪5冊という計画の半分で終えてしまうこともあり得る。

 

これも、さっきの話と同じ。

いちいちこれに憂いでもしょうがない、今の私にはできなかった。ただそれだけである。

その現状はちゃんと受け止める、でもだからと言ってやめてしまうのが一番愚かしいじゃないか。

こんなペースでも、これまでの私に比べるとかなりの進度である。

続けていけば、気付いた時にはとんでもないところに来ている。そういうものだ。

 

話は随分と逸れたが、今の私の現状としては

TOEICで415。その程度。もちろんショックだった。でもだからと言って悩まない。

いつもと同じように英語学習に時間を割く。

だって少なくとも前進しているんだもの。続けること。たったそれだけでどこまでもいけるんじゃないかって、今はそう思うのだ。