二兎を追い、二兎をも得る

日常は無常。心は満腹を知らず、醜くも大衆の亡霊を頬張るばかりである。

或る夜の会合にて

本日私が参加したのは、私の会社から自転車で30分(私の移動は通常自転車である)、福岡の中心街にある、とあるバーで行われる立食形式のイベントだった。

 

元来人見知りとして生きてきた私はやはり楽しさを見出すことはできなかった。

もちろん嘘のない、いい人は多く参加している。さもなければ参加する道理はない。

そもそも私に悪意に満ちた人間は近づいてこない。これはあくまで経験則だが。

 

とにかく、人と新たに関係を築くのが面倒なのだ。

面倒という言葉は悪質である。その一言で全てを否定する。棄却する。

しかし、やはり面倒であるのだ。

 

組織が同じならば話は変わってくる。複数回にわたって関わることにより相手の人間性もいくらか分かってくる。情もわくというものだ。

しかしながら、今回の参加者は今夜が初めてというものも何名かおり、出会うこと、関わることに意義を見出しているのだと思えた。

こうした無差別なイベントにおいて人脈を形成しようと思うのであれば、積極的に自ら参加し、さらに話題を持ちかけるという大技を何度も繰り返してゆかねばならない。非常にエネルギーが要る。

これが何かテーマがあるのならば話は別である。

誰々の音楽を聴く、そして語る。

何々の映画を見る。そして語る。

人との関わりとは言語によるコミュニケーションに依存するものが多い。

そんななかで、ざっくばらんに集められた人間がすぐさま打ち解けるなんていう道理が全く持って見当たらない。

もちろん当方いっぱしの社会人である。分別を持って存分に笑うし、頷く。

対価を支払った見返りが、まさか表情筋の品質向上なのだというのだろうか。

 

出会うことに価値はない。関係することに価値があるのだ。

関係は初対面ではほぼ発生しない。何度も日をまたいで顔を合わせて初めて

関係が生まれる。相手が自分の世界の住人になる。

 

このように、今回においても何度か参加できるのであれば、関係していきたい人は出てくることだろう。主催者側もそれを望んでいるとは思う。

 

しかしながら、私はどうしても勘繰ってしまうのだ。

どうしてこんなに生産性にかける会合に皆満足面で参加し、さらにメインであるはずの

洋菓子にはろくに手もつけず、ただただ世間についてのしゃべりを繰り返しているのだろうと。

こうしたものに参加するということに対してのドヤ顔が垣間見えるような気がしてしまうのだ。

 

とはいえ。

そんなくだらないことに思考を運ぶことに時間を割き、何でもかんでも意味を求めてしまうのは、それこそが生産性なんて皆無であり。

精神的な豊かさなんて持ち合わせないものの典型じゃないか。

おいしいものはおいしい。

楽しいものは楽しい。

好きなものは好きだ。

それでいいじゃないか。

 

なんともくだらない人間に仕上がってしまったものである。