二兎を追い、二兎をも得る

日常は無常。心は満腹を知らず、醜くも大衆の亡霊を頬張るばかりである。

”おしゃれさ”とは何かについて

最近、僕が勤めてている会社が服装規定を緩めて”ビジカジ”を導入した。

それまで、シャツは必ず白、派手なスーツはNG、みたいなユニフォームの中で過ごして来たのが一転して服装についての自己主張がある程度の自由を与えられた。

 

実際には、決まった服装のほうが楽なので、周りがビジカジになっていくに連れ、服装の選択に戸惑う人が一定数出て来る。

こういう人には制限がある方が楽であって、好ましいのだ。自由とは選択する責任を問われる。人によっては自由を望まないのだ。

 

僕はというと、自分で言うのは憚られるが、オシャレの素養はある方だと思っているし、実際洒落ていると言われることは多い。(それが全てお世辞ではないことを願いたいところだが。。)

そういうわけで、僕がおしゃれな人間であるという前提のもとに話を進めさせて欲しい。

 

会社がビジカジになって少しして、センパイ社員から、

「いいよなあ、俺はセンスがないからなあ」と言われた事がある。

そのセンパイは今でもスーツで仕事をしているので、それはそれで良いとは思うけれど、この発言には異を唱えた。

「いや、センスというのは技術と一緒で、どれだけの時間関心と試行を重ねたか、その経験があるかどうか、それだけの差だと思いますよ、少なくとも一般的におしゃれとされる程度の範囲では」

そのセンパイがたじろいだので少し申し訳なかったが、自分なりにはそこはもう自負がある。

 

アルバムに中学生の頃の写真が今も残っていて、引っ越しの度に引き出しの奥から思い出してと言わんばかりに出てくるそれを見やるが、到底センスを感じられない装いなのだ。

 

例えば小学生ならば親が服を選ぶし、写真写りの愛嬌で多少はごまかされるが、中学生は思春期でもあって、服装に関心を持ち始める頃だ。

 

そんな中学生の頃の痛い思い出がある。

当時仲が良かった友人にマセた奴がいて、その友人はその当時の僕よりよっぽどおしゃれがなんぞやを心得ている様子だった。

僕は、母親の携帯電話を借りては友人たちと連絡を取り合っていたが、その友人にしばしばファッションチェックをしてもらっていた。

ところが、これは、と思うコーディネート(呼べるような代物ではなかったが)をしてみても彼から合格点をもらうことができなかった。

それが原因ではないが、そんなやり取りの延長で喧嘩になり、今でも連絡をほとんど取っていない。

しかし、そいつに”ダサい”と言われ続けたことで、何がダサくて、何がおしゃれと呼べるのかを意識するようになった。

 

そうした試行錯誤の末、大学生の頃には「そこそこ個性的でおしゃれな奴」という称号を手に入れた。そこでの成功?体験が結果的には今に根付いていると感じている。

 

では、試行錯誤とは何を意味していて、おしゃれさとは何かという話だが、

僕は思う、「コモンセンスとの距離感」こそがおしゃれさの正体ではないかと。

色んな失敗もしながら、ダサいってなんだ、おしゃれってなんだって思いながら生きて来た。でもファッション雑誌には興味があまりなかった。全く読まないわけではなかったが、少なくとも買ったことはなかった。

 

研究対象は、普段接する人々だった。友人、親族、職場の同僚。彼らが話題にするおしゃれさに対しての評判と実態を比較するのである。〇〇さんはおしゃれである。〇〇さんは服装のセンスが残念だ。そういった情報を実際に現実と比較することで、人々に共通する美意識を自分の中に作り上げた。

そうして、おしゃれな人間になるには、その美意識の枠の中で、自分が好きな格好をすればいい。ということに気がついた。

 

そういった情報収集と実践の中でわかったことは、センスがある人だけでなく、センスがない人と言われる人も、誰々がオシャレかどうかはわかるのである。

つまり、センスがない人はオシャレさをアウトプットできないだけなのだ。

それは、オシャレさに対して関心を抱き、実践する経験が不足しているためにその人の中にアウトプットできる技術が根付かなかっただけなのである。

 

そういうわけで、「オシャレとは技術である」というのが僕の主張である。

だから、センスがあるとかないとか、そういう言葉で片付ける発言が気に入らない。センスがないのではなくて、関心を持たずにオシャレに関して試行錯誤してこなかった。その差を才能の様に扱うのはいただけない。自分はおしゃれに関心がないと言えば良いものをあたかも自分がコントロールできない何かであるとすることで努力の不足を正当化しているようである。

 

そして、コモンセンスと一定の距離感を保ち、自分を表現すること。これは服装に限らず生き方そのものにも言えるのではないかと思っている。

かっこいい生き方を目指すことは自己肯定感にも繋がる。

かっこいいとは別にスマートであることを意味してはいない。泥臭くても、なりたいもの、そうありたい存在に対して向かうあらゆる行動がかっこいいのであると思うし、

たとえ今の自分がそうなれていなくても、周囲からそういう評価をされていなくても、そんな風に人生を着飾ること、それこそファッションだと思っている。

 

だから、僕は思うのだ、人生はファッションである、と。

さあ、今日も自分を着飾ろう。