二兎を追い、二兎をも得る

日常は無常。心は満腹を知らず、醜くも大衆の亡霊を頬張るばかりである。

少女たちが恋愛ソングに涙する理由

Twitterであるとか、FacebookとかのSNSから足が遠のいてしばらくたつ。

何年くらい経過したがわからないが、数年単位で僕のiPhoneの画面にそういった類のアプリケーションが存在していない。

Instagramも本格的に流行る前の頃にアカウントを作ったっきりだったので全く何も映えない生活をしているのが現状だ。

もともと僕がSNSを避けだしたのは、若さゆえの希望や夢やあるいは下世話な欲望に満ち溢れていたからだ。それらを自分のものとするにはSNSをすることが大事な時間資源を奪うように感じられた。

実際に脱SNSを試みて感じたことだが、特に時間は増えない、単にほかの何かの時間に置き換わるだけでしかなかった。

もちろん、それは僕にはそう感じられたという話であって、メリットを享受できたと感じる人もいるだろう。ただ、僕がやってみて思ったのは、SNSとか関係なく結局はスマホとの距離感なのだなと思った。単にSNSに限らずスマートフォンとの距離を無意識的に近づけるアプリケーションが存在するということであった。

それから、SNSを絶ったはいいが、一つだけ困っていることがある。それは、思いついたことをアウトプットする場がなくなったということだ。そういうとき話せる友人がいるにはいるのだが、友人にも時間があるわけで、その話を始めるコンテキストも必要になってくる。そういう意味で、ここは気軽にいろんなことを吐き出せる場であるのだと考えたのだった。

 

さて、前置きが長くなったのでそろそろ本題に入る。

甘ったるくてべたべたな恋愛ソングに「共感する~」なんて言っている女子がどうにも理解できなかった。というか理解しようと思えなかった。

それよりも、音楽にめちゃめちゃ造詣が深くて僕が知らない音楽やいろんなアーティストのルーツになった人の曲をいっつも聞いているような女性の方がずっと魅力的に映った。

 

おそらくは僕がバンドマンだったことが大きな原因なのだけど、やっぱりそういうスタンスでいることがかっこいいと思ってしまっていたのだと思う。それはそれでよかったけれどね。

 

で、もう30目前だけど、今更になってようやくそんな少女たちのことが少しわかったような気がしている。

きっかけは、宇多田ヒカルの新しいアルバム「初恋」だった。

宇多田ヒカルのデビューアルバム「First Love」から19年。

同じ初恋でも意味合いが全然違うなと感じた。

First Loveをリリースした時、彼女は年端もいかない少女だった。しかしながらそこで綴られた歌詞は妙に大人びた印象を抱く。

最後のキスはタバコのフレーバーがした、なんてことを16歳の少女が切なげに歌い上げているのだ。その危うさもみずみずしさもなんだか蠱惑的である。

一方、初恋で歌われているのは、おそらくは子供に対する想いである。

First Loveのころは、あなたが去ろうと私は知ったことじゃないみたいな強がりやかわいげが詩の中に表現されていたが、初恋で歌われているのは、絶対的で無条件の愛情であり、あなたがどうなってもあなたを愛し続けるという母性なのであった。

 

ちょうど父親になっていろいろと考えるところがあったこともあって、詩を聞きながらそれに自分の父性が重なる部分もあったのでじんわりと染みるような感覚を覚えた。

でもそれって、宇多田ヒカルが子供に対して感じることや、実体験であって、別に僕がそう思ったという実感は必ずしもあるわけではなかったし、まして数々の体験などこれからというところだった。

 

それで、ああ、恋愛ソングに涙する少女も似たようなことを曲の中で感じているのかもしれないと思った。

つまり、自分が置かれている状況を曲の歌詞を媒体としてイメージすることで物語化するのである。

例えば、それっぽい歌詞、そうだな、”つないだ手のぬくもり”とかいうフレーズがあった時、たとえ手をつないだ経験がなくても、好きな男子とちょっと手が触れただけの体験が、この歌詞をトリガーとして思い出されることによって、その、実はなんでもないシーンが、ある種のドラマチックさを帯びる。記憶が物語化するのである。

そして、その体験のイメージによる記憶の増幅(改ざん)や物語化は表現が具体的であるほどハードルは下がる。

 

つまり、表現に深みの無い平坦でべたべたな歌詞の方が、自分の体験記憶のトリガー、そしてその物語化においては機能するのである。

つまり、少女たちが「まぢ泣ける」なんて言ってんのは(古いか?)

その曲やその曲の歌詞が実に感動的だと言っているのではなく、その歌詞を通して想起された自身の体験がドラマチックに改ざんされた、その体験を感動的、泣けるといっているのであって、泣く対象はあくまで自分の記憶の中の自分なのである。

 

まあ、確証はないのだけれど、おそらく似たような経験は誰しもあるんじゃないかと思う。ふと耳にしたキーワードが記憶が呼び出されるきっかけになる体験だ。

つまり、少女たちは普段から実にプライベートで利己的な悩みを抱えているからこそ、その増幅・改ざん・物語化の媒体としての歌詞に対して価値があると思えるのではないだろうか。それはそういったイマジネーションのテクニックでもあると思える。

僕が理解しようとしなかったことは実はとても人間的で、実は興味深い思考の営みだったのかもしれないと思えたのである。