二兎を追い、二兎をも得る

日常は無常。心は満腹を知らず、醜くも大衆の亡霊を頬張るばかりである。

憧憬と孤独

久々のハコはいつになく賑やかで

孤独に佇み人と音に身をまかせるとき

ここでは自分は何者でもない景色の一部になる

たくさんお金を持っているとか

いろんなものを知っているかとか

意味をなさない

 

ここだってひとつの世界

たとえば自分の生まれ故郷を離れるとき

それまでの世界の外で

誰でも孤独になる

だけどいつしかそれも忘れてしまう

だからそう、ここに来るたび孤独が顔を出す

単に忘れてしまっていただけで

あれはいつでも俺の中にいた

 

おれはいつでも矮小だった

単に忘れてしまっていただけで

思い出す

孤独、痛み、もがく、漏れる、不安

昨日の上司の怒声は実はフィクションで

こっちの痛みの方が本物かもね

 

 

少女たちが恋愛ソングに涙する理由

Twitterであるとか、FacebookとかのSNSから足が遠のいてしばらくたつ。

何年くらい経過したがわからないが、数年単位で僕のiPhoneの画面にそういった類のアプリケーションが存在していない。

Instagramも本格的に流行る前の頃にアカウントを作ったっきりだったので全く何も映えない生活をしているのが現状だ。

もともと僕がSNSを避けだしたのは、若さゆえの希望や夢やあるいは下世話な欲望に満ち溢れていたからだ。それらを自分のものとするにはSNSをすることが大事な時間資源を奪うように感じられた。

実際に脱SNSを試みて感じたことだが、特に時間は増えない、単にほかの何かの時間に置き換わるだけでしかなかった。

もちろん、それは僕にはそう感じられたという話であって、メリットを享受できたと感じる人もいるだろう。ただ、僕がやってみて思ったのは、SNSとか関係なく結局はスマホとの距離感なのだなと思った。単にSNSに限らずスマートフォンとの距離を無意識的に近づけるアプリケーションが存在するということであった。

それから、SNSを絶ったはいいが、一つだけ困っていることがある。それは、思いついたことをアウトプットする場がなくなったということだ。そういうとき話せる友人がいるにはいるのだが、友人にも時間があるわけで、その話を始めるコンテキストも必要になってくる。そういう意味で、ここは気軽にいろんなことを吐き出せる場であるのだと考えたのだった。

 

さて、前置きが長くなったのでそろそろ本題に入る。

甘ったるくてべたべたな恋愛ソングに「共感する~」なんて言っている女子がどうにも理解できなかった。というか理解しようと思えなかった。

それよりも、音楽にめちゃめちゃ造詣が深くて僕が知らない音楽やいろんなアーティストのルーツになった人の曲をいっつも聞いているような女性の方がずっと魅力的に映った。

 

おそらくは僕がバンドマンだったことが大きな原因なのだけど、やっぱりそういうスタンスでいることがかっこいいと思ってしまっていたのだと思う。それはそれでよかったけれどね。

 

で、もう30目前だけど、今更になってようやくそんな少女たちのことが少しわかったような気がしている。

きっかけは、宇多田ヒカルの新しいアルバム「初恋」だった。

宇多田ヒカルのデビューアルバム「First Love」から19年。

同じ初恋でも意味合いが全然違うなと感じた。

First Loveをリリースした時、彼女は年端もいかない少女だった。しかしながらそこで綴られた歌詞は妙に大人びた印象を抱く。

最後のキスはタバコのフレーバーがした、なんてことを16歳の少女が切なげに歌い上げているのだ。その危うさもみずみずしさもなんだか蠱惑的である。

一方、初恋で歌われているのは、おそらくは子供に対する想いである。

First Loveのころは、あなたが去ろうと私は知ったことじゃないみたいな強がりやかわいげが詩の中に表現されていたが、初恋で歌われているのは、絶対的で無条件の愛情であり、あなたがどうなってもあなたを愛し続けるという母性なのであった。

 

ちょうど父親になっていろいろと考えるところがあったこともあって、詩を聞きながらそれに自分の父性が重なる部分もあったのでじんわりと染みるような感覚を覚えた。

でもそれって、宇多田ヒカルが子供に対して感じることや、実体験であって、別に僕がそう思ったという実感は必ずしもあるわけではなかったし、まして数々の体験などこれからというところだった。

 

それで、ああ、恋愛ソングに涙する少女も似たようなことを曲の中で感じているのかもしれないと思った。

つまり、自分が置かれている状況を曲の歌詞を媒体としてイメージすることで物語化するのである。

例えば、それっぽい歌詞、そうだな、”つないだ手のぬくもり”とかいうフレーズがあった時、たとえ手をつないだ経験がなくても、好きな男子とちょっと手が触れただけの体験が、この歌詞をトリガーとして思い出されることによって、その、実はなんでもないシーンが、ある種のドラマチックさを帯びる。記憶が物語化するのである。

そして、その体験のイメージによる記憶の増幅(改ざん)や物語化は表現が具体的であるほどハードルは下がる。

 

つまり、表現に深みの無い平坦でべたべたな歌詞の方が、自分の体験記憶のトリガー、そしてその物語化においては機能するのである。

つまり、少女たちが「まぢ泣ける」なんて言ってんのは(古いか?)

その曲やその曲の歌詞が実に感動的だと言っているのではなく、その歌詞を通して想起された自身の体験がドラマチックに改ざんされた、その体験を感動的、泣けるといっているのであって、泣く対象はあくまで自分の記憶の中の自分なのである。

 

まあ、確証はないのだけれど、おそらく似たような経験は誰しもあるんじゃないかと思う。ふと耳にしたキーワードが記憶が呼び出されるきっかけになる体験だ。

つまり、少女たちは普段から実にプライベートで利己的な悩みを抱えているからこそ、その増幅・改ざん・物語化の媒体としての歌詞に対して価値があると思えるのではないだろうか。それはそういったイマジネーションのテクニックでもあると思える。

僕が理解しようとしなかったことは実はとても人間的で、実は興味深い思考の営みだったのかもしれないと思えたのである。

かなしみよ、さようなら。

年越し前はおおよそ一年で最もざわついた時期であると思う。

街が騒がしいのは明らかだが、その中に暮らす人々の心も騒がしくなる。

連日の飲み会で楽しさの中にひっそりと孤独が影を落としたり、久々の旧友との再会で羞恥と高慢にあえいだり。安らいだり、怒ったり。

そうして世界とともにざわつきながら、

人は人生を振り返りたくなる。

むしろそう強いられているような気さえするのだ。

 

かくいう俺もそのひとりであり。今からなにかを振り返りたくなったのである。

 

30を目前にして、ようやく実感した事がある。

 

ーーフルマラソンを完走したよ。30キロを完走出来なくて挫折したところから始まってさ。

1週間で85キロ走ったんだ。毎日10キロちょっとと日曜日に20キロちょっと。

ジェフリームーアのエスケープベロシティって本を5日で5周読んだことがあってさ。

日記をかれこれ7年間くらい続けてるんだ。

 

全てやったことのあること。

自分の中でも印象的でよく人に話すエピソードをいくつかあげてみてる。

つまり実感したのはこういうこと。

人はやったことで出来てる。

やっていない事はいつか実践し体験しない限りはその人のモノにはなり得ないんだってこと。

ここでは思想や価値観の話をしているんじゃない。

手前がつまり何者かって言うことだ。

それは、おそらくは、その人のこれまでの経験の具体化である。

経験がその人をその人足らしめるのである。

俺は、あなたは経験で出来ている。

 

そして、経験を作り出すのは、その人を取り巻く環境と、その人自身の価値観、思想、未来への意志である。

 

そういえば、上に書いた経験は、全て挑戦だった。

フルマラソンを走ろう、一日1周本を読み込もう、日記を習慣にしてみよう。

 

それに何か目標があったのか。あったといえばあったが、挑戦すること自体が楽しかった。

 

 これまで何度も、大きな目標を描いた。

これまでの色々を否定した大きな目標だ。

でも、全くダメだった。少なくともいままではは上手くいかなかった。

上手くいかなかったというのは、頑張ったけどダメだったんじゃない、全くやらなかったのだ。

ほんとは努力すべきことはわかっていた。しかしやることができなかったのだ。

そうして、俺は俺のままであり続けているのである。

変わることへの拒絶反応だと思っている。

頭の中で望むことも、心の奥深くでは全く望んでいなかった。

誰かを羨むことも、そうして俯瞰して羨む感性をどこか愛していたのかもしれない。

 

大きな失敗は、自己愛から来るのだと思った。

救えない。

 

しかし、俺は30を目前に気が付いた。

やったことがその人を象るのだと。

そして、目標に向かうよう自分を鼓舞するのではなく、そのプロセスに挑戦することを楽しむべきなのだ。 

その挑戦が経験となり、その人を作り出すから。

それが人が変われる理由なんだ、きっと。

 

来年はきっと上手くいく。今年も今からちゃんとやる。

落胆した、ダメだと思った。でも、ほんとうはちゃんと動いてた。だから気付けた。

清濁併せ呑み前に進もう。

”おしゃれさ”とは何かについて

最近、僕が勤めてている会社が服装規定を緩めて”ビジカジ”を導入した。

それまで、シャツは必ず白、派手なスーツはNG、みたいなユニフォームの中で過ごして来たのが一転して服装についての自己主張がある程度の自由を与えられた。

 

実際には、決まった服装のほうが楽なので、周りがビジカジになっていくに連れ、服装の選択に戸惑う人が一定数出て来る。

こういう人には制限がある方が楽であって、好ましいのだ。自由とは選択する責任を問われる。人によっては自由を望まないのだ。

 

僕はというと、自分で言うのは憚られるが、オシャレの素養はある方だと思っているし、実際洒落ていると言われることは多い。(それが全てお世辞ではないことを願いたいところだが。。)

そういうわけで、僕がおしゃれな人間であるという前提のもとに話を進めさせて欲しい。

 

会社がビジカジになって少しして、センパイ社員から、

「いいよなあ、俺はセンスがないからなあ」と言われた事がある。

そのセンパイは今でもスーツで仕事をしているので、それはそれで良いとは思うけれど、この発言には異を唱えた。

「いや、センスというのは技術と一緒で、どれだけの時間関心と試行を重ねたか、その経験があるかどうか、それだけの差だと思いますよ、少なくとも一般的におしゃれとされる程度の範囲では」

そのセンパイがたじろいだので少し申し訳なかったが、自分なりにはそこはもう自負がある。

 

アルバムに中学生の頃の写真が今も残っていて、引っ越しの度に引き出しの奥から思い出してと言わんばかりに出てくるそれを見やるが、到底センスを感じられない装いなのだ。

 

例えば小学生ならば親が服を選ぶし、写真写りの愛嬌で多少はごまかされるが、中学生は思春期でもあって、服装に関心を持ち始める頃だ。

 

そんな中学生の頃の痛い思い出がある。

当時仲が良かった友人にマセた奴がいて、その友人はその当時の僕よりよっぽどおしゃれがなんぞやを心得ている様子だった。

僕は、母親の携帯電話を借りては友人たちと連絡を取り合っていたが、その友人にしばしばファッションチェックをしてもらっていた。

ところが、これは、と思うコーディネート(呼べるような代物ではなかったが)をしてみても彼から合格点をもらうことができなかった。

それが原因ではないが、そんなやり取りの延長で喧嘩になり、今でも連絡をほとんど取っていない。

しかし、そいつに”ダサい”と言われ続けたことで、何がダサくて、何がおしゃれと呼べるのかを意識するようになった。

 

そうした試行錯誤の末、大学生の頃には「そこそこ個性的でおしゃれな奴」という称号を手に入れた。そこでの成功?体験が結果的には今に根付いていると感じている。

 

では、試行錯誤とは何を意味していて、おしゃれさとは何かという話だが、

僕は思う、「コモンセンスとの距離感」こそがおしゃれさの正体ではないかと。

色んな失敗もしながら、ダサいってなんだ、おしゃれってなんだって思いながら生きて来た。でもファッション雑誌には興味があまりなかった。全く読まないわけではなかったが、少なくとも買ったことはなかった。

 

研究対象は、普段接する人々だった。友人、親族、職場の同僚。彼らが話題にするおしゃれさに対しての評判と実態を比較するのである。〇〇さんはおしゃれである。〇〇さんは服装のセンスが残念だ。そういった情報を実際に現実と比較することで、人々に共通する美意識を自分の中に作り上げた。

そうして、おしゃれな人間になるには、その美意識の枠の中で、自分が好きな格好をすればいい。ということに気がついた。

 

そういった情報収集と実践の中でわかったことは、センスがある人だけでなく、センスがない人と言われる人も、誰々がオシャレかどうかはわかるのである。

つまり、センスがない人はオシャレさをアウトプットできないだけなのだ。

それは、オシャレさに対して関心を抱き、実践する経験が不足しているためにその人の中にアウトプットできる技術が根付かなかっただけなのである。

 

そういうわけで、「オシャレとは技術である」というのが僕の主張である。

だから、センスがあるとかないとか、そういう言葉で片付ける発言が気に入らない。センスがないのではなくて、関心を持たずにオシャレに関して試行錯誤してこなかった。その差を才能の様に扱うのはいただけない。自分はおしゃれに関心がないと言えば良いものをあたかも自分がコントロールできない何かであるとすることで努力の不足を正当化しているようである。

 

そして、コモンセンスと一定の距離感を保ち、自分を表現すること。これは服装に限らず生き方そのものにも言えるのではないかと思っている。

かっこいい生き方を目指すことは自己肯定感にも繋がる。

かっこいいとは別にスマートであることを意味してはいない。泥臭くても、なりたいもの、そうありたい存在に対して向かうあらゆる行動がかっこいいのであると思うし、

たとえ今の自分がそうなれていなくても、周囲からそういう評価をされていなくても、そんな風に人生を着飾ること、それこそファッションだと思っている。

 

だから、僕は思うのだ、人生はファッションである、と。

さあ、今日も自分を着飾ろう。

週次レビュー2017.9週

今週の自己点検スコア 5項目25点満点

トータル 89点 

平均 12.7点(50.8%)

最大 15点(60%)日曜日

最小 11点(44%)月曜日

 

KPI評価

体重 79.7kg 先週同曜日80.1kg(-0.4kg) △

英語 未計測 → 未計測 ×

読書 本1冊読了 ◯

 

大きな数字は、悪化した先週から対して伸びていない。

と、言うのも、今週は会社の研修合宿が3泊4日で行われたのだが、当初の計画では、運動をせねばと思い、ランニングウェア一式をカバンに詰め込んだのだが、シューズを忘れるというマヌケっぷりで流石に革靴で走るのも何だと思い、気持ちが一気に萎えてしまったのだ。

ただ、体重は減っている。

これには、ちゃんと理由がある。ただでさえ拘束時間が長い上に他人と共同生活を強いられるため極めてストレスフルな環境なのだが、食事だけは3食分手厚く用意されているのだ。毎回合宿を追える度に下手すると数キロ単位で増えてしまっていた。ここが体重減少を目論む上でのボトルネックの可能性は非常に高かった。

今回はこのうち1日をファスティングとして設定した。

実は昨年秋くらいに一度同じタイミングで3日のファスティングを実施した。結果、―当然といえば当然だが―3日間で4キロ体重が落ちた。その後多少は戻ったが、ある程度維持できていた。しかし、年末年始に忙殺され、それ意向運動もろくに行わなかったし2度とファスティングも挑戦しなかった。お陰ですっかり元通りの体重まで戻ってしまったのだった。

今は、運動を行う習慣ができた。ただ、なかなか食事量を減らせなかった。そこでこのタイミングで再度行うことにした。ただし、今回は1日に留めておいた。

1日のファスティングデトックスの効果があると言われている。

ダイエットもそうだが、健康について調べていくうちに、あらゆる調子の原因は内臓が鍵を握っていることが多いということがわかった。

体を駆け巡る血液を作っているのも内蔵だ。内蔵が疲弊していればその効率も悪くなる。脳だって血液から栄養を摂取しているのだ。そういったことを聞いてしまうと、内蔵にももっと気を遣ってやらねばと言う気がしてくる。

一度内蔵を休めてあげて、体をリセットしてやることが今は重要なのかもしれないと思った。

 

実施においての一番の敵は、空腹でもなんでもない、善意を持った他人だった。

ファスティングを行うのは、実際に食事(固形物)を摂らない日数分とその前後で同じ日数ずつで食事の中身を変える必要があるため実施期間×3日間が実質の実施期間となる。今回は1日だったので、前後1日ずつで計3日だった。

前日は何の問題もなかった。バレないようにいわゆる”まごわやさしい”に絞り、米の量も意識的に減らした。(茶碗の3分の1くらいで、それだとバレるのでプレートのさらに一緒によそった)

当日はさすがに、みんなが食事を取っている間隠れていなければならない。

しかし、バレてしまう。そうなると周りは好奇の目で見てくる。普通は日常で食事を抜くなんて発想をしないからだ。そりゃ断食について、ファスティングについてある程度調べていれば、ファスティングの効果が云々よりも、数日食事を抜いたところで人は死なないというかびくともしないことは知っているはずだ。しかし、知らないと普通に考えてありえない行動を取ることに恐怖を抱く。

良識と善意のある人々から言われるのだ。

「やめておけよ、からだに悪いぞ」

「逆に太るだろ」

「大丈夫なのか」

 

前回もそうだが、ファスティング中は、不思議なくらい腹が減らない。

いや、食べたいなという気持ちは確かにあるのだが、別に食べなくても平気だなと思う。

この経験があるのと無いのでは大きな違いを生むように思う。

実際体重は減ったのだ。それが答えだ。

もちろん、次の日少し意識して食事を取って、その後は割となんでも食べたから、少し戻ったが、それでも前週より減っているし、なんならこれを書いている日曜日(また遅れた。。)は記述しているより更に1キロくらい減っている。

それもそのはず、ファスティングを正しく行うと、断食を乗り越えて胃が一度縮んだ状態が維持されるので少ない量で満足するようになる。単純に食う量が減っているのだから当たり前だ。

断食=逆に太ると主張するのは、断食から明けた時、すぐにもとの食事量に戻してしまうからその後の食事減少に失敗するとリバウンドをすることを指している。

 

ダイエットの根本的な対策は食事量のコントロールか運動による基礎代謝の向上、これ以外には無いと思っている。

もちろん、有酸素運動をすると脂肪燃焼するだろうが、運動の継続の難易度の高さ(誰しも不条理といくらかは付き合っているはずだ)を考えると、代謝する量のベースを挙げておくことと少ない量で満足できるようにすることの効果は長い目で見て大きい。

ダイエットを意志力の課題に持ち込もうとするから失敗するのだと、自身の数々の失敗をもとに思い至った。まあまだ全然痩せて無いのだけれどね。

 

まあ、ともかく、僕は改めて他人に干渉することの罪深さを思い知ったのだった。

自分の正義は必ずしも相手にとってもそうではないということだ。

というか、そもそも相手を変えようとすることがおこがましい行為なのだ。

相手の世界に干渉するのであれば、相手の人生を背負う覚悟が必要だ。

そう思えば、中途半端な知識や経験で主観だけでの意見などできるはずがないのだ。

 

という愚痴を交えて、来週こそ頑張れるはずだ、、と信じて。

週次レビュー2017.10週

今週の自己点検スコア 5項目25点満点

未分析

 

KPI評価

体重 80.1kg 先週同曜日79.9kg(+0.2kg) ×

英語 未計測 → 未計測 ×

読書 本2冊読了 ◯

 

今週は、と言うか、もう金曜でほぼ2週間経過してしまった。

やっぱり駄目なのか、と思うけれども、こうしてブログをなんとか開いている次第である。

この週に関しての敗因は、急な飲み会、それも連日の、、というものすごくありきたりな理由だった。

でも出家したり、放浪したり修行を重ねる世捨て人でもない限りは、凡人にはそういうのは当たり前にある。断るのも忍びないし、気持ち的には行きたいし、完全に無くすことって無理かなと思ってる。少なくとも自分から企画することはなくなったけれどね。今回はそれが連日続いてしまったってのが大きいなと思う。

だから、大事なのは、どうやったら飲み会を避けられるかではなく、どう付き合っていくか何だと思う。それで積極的に飲みに行くでもなくてね。

アルコールからは、ほろ苦い人生経験以外に学んだ記憶は無い。

もちろん、そこでしか話せなかった話題とかはあるけど、それはアルコールがなくたって得られたりするものだ。

必要十分な量さえあればいいし、それは決して多くない。

 

ともかくとして、今回は、この連日の会合の結果、毎日の自己点検が最大で3日遅れた。そしてさらに悪いことにそれが習慣になってきた。

違う。自己点検はその日の終わりには終わらせるのだ。

そして週次レビューも土曜で終わらせなければならない。

週次レビューが土曜で終わらない理由は、土曜の自己点検が夜にならないと出来ないからだ。

それが出揃わないと書き始めにくい。

そして、土曜の夜とは誘惑の多い時間だ。

何しろ、僕だけじゃなくて世界の多くは次の日も休みになっているのだ。

 

金曜までを一週間にするというのはどうだろうか。

土曜は昼に比較的時間がある。その時間に週次レビューを出来ないだろうか。

明日、早速やってみようと思う。

最初からすべてうまく行くなんて思っていないんだ。

修正しながらやっていこう。

週次レビュー2017.9週

今週の自己点検スコア 5項目25点満点

トータル 112点 先週118点(-6点)

平均 16.0点(64.0%)先週67.4%(-3.4)

最大 23点(92%)日曜日

最小 11点(44%)月曜日

 

KPI評価

体重 79.9kg 先週同曜日79.9kg(-0.0kg) ▲

英語 未計測 → 未計測 ×

読書 本1冊読了、現在呼んでいる本70% ◯

 

レビューが水曜までに後ろ倒しになってしまった。

これにはいろいろ良い訳はある。出張中であることとか、久々の家族で外出したとか、結婚するから親同士の顔合わせがあったりとか。でもまあ、やってないことはやってない。

 

平均点がさがると、やはりKPIも下がる、当然だ。

もうこの習慣はしばらく続いているが、日々の点検が週での進捗に関わることはわかった。

今週は繰り返さない。