二兎を追い、二兎をも得る

日常は無常。心は満腹を知らず、醜くも大衆の亡霊を頬張るばかりである。

継続の理論

継続は力なりとはよく言ったものだ。

多くの文章や映像、音楽が継続の重要性を教訓として民衆を説き伏せている。

 なにより継続の効果は科学的に立証されているのである。

そのため物事を始めるときは、誰しもが継続を前提としているものだ。

 たとえば、

ダイエット、筋トレ、読書、楽器のクリック練、ブログ更新などなど。

 

ところが、新たに始めた物事のほとんどはついに継続を会得することは出来ない。

それどころかスタート地点から数歩のところですでに火は消えているのである。

そんな例は枚挙に暇が無い。あらゆる人が継続が必要と思っていても、それを実現できるのはマイノリティである。

これは実に不思議に思えるが、これにも理論が存在する。

 

全てのものには理由があるのだ。

彼と”なんとなく”付き合った彼女にもちゃんと理由は存在している。

それについて言葉にできる能力があるかどうかの問題である。

 

私は思う。明日の自分が今日始めたものをやりたいと断言できるのか、と。

というのは、どうも昨日までの自分と本日の自分がとても同一人物とは思えないのだ。

まるで意識を日でまたいだ自己が、姿形はまるっきり同じで中身すら酷似しているが、実は確定的に異なる存在であるかのようだ。

 

その正体は明確。脳のコンディションである。

ホルモンの分泌状態、栄養の過不足、外的要因の認識度合いなど様々な影響を受ける脳が昨日とは違った働きをするのである。

この点については、ググれば無限に解決法を示すページがある。

 しかしながら、そうしたいわゆる”ノウハウ”を以ってしても現代人の継続に対する壁はやはり高い。(ちなみにいうと私はノウハウという言葉が嫌いである)

 

とはいえ実用的なものも確実にあるゆえに技術的な部分は、書籍とインターネットに

任せるにして、継続における心構えについて書いてみたい。

私にとってはこれが継続への理論の外枠なのである。

 

継続するためには、明日の自分が今日行ったことを遂行してくれる必要がある。

上述の通り日をまたいだ明日の自分は他人である。

他人に物事をさせるうえで必要なものは、その物事により取り組みやすくなる「準備」である。

例えば仕事においても、数値を集計して欲しいときには、記入する枠や用紙をあらかじめ用意しておく、資料をひとまとめにしておくなどするといいだろう。

 

同じように明日の自分という他人がいかに継続したい物事に取り組みやすい環境を作り出せるかが重要なのである。

後回しも、明日の自分に対する過信、慢心、驕りからくるものである。

自分は自分のことを十分に理解しているつもりでいるのであろうが、十分に理解できているのならば続かないことで悩む必要も無い。

それよりも、しっかりと把握できる自分は、この瞬間の自分のみであとは全て他人と割り切ったほうが対応のしようがあるというものだ。

 

長くなったが、自分は決して身内ではない。礼儀と思いやりを持って接すること。

それが継続への近道であると私は思っている。