二兎を追い、二兎をも得る

日常は無常。心は満腹を知らず、醜くも大衆の亡霊を頬張るばかりである。

人の意見なんて、評価なんてくそくらえ。だ。

なーんてよく聞くけれどね。本当にそうかしら?

 

ご機嫌麗しゅう。

 

人の意見、評価は一定の論理性と、主観やバイアスが介在していると思っている。

 

有名な話で、フォードの顧客に対する話がある。

”顧客に何を求めるかを聞けば、もっと速い馬をというだろう。”

これって、顧客は何にもわかっちゃいないよっていう話なんだけれど、

これは、フォードが自動車という常識外れの狂人的な考えを持っていたがための話で

今を生きてる彼らからすると、速い馬こそが最上の移動手段だったわけね。

 

科学技術の進歩により、想像を超えた日常に我々はいるわけだけれど、

いったい誰がそれを知っているのさ。

いったい誰が、グーグルのここまでの発展を言い当て、

いったい誰が、世界のソニーの衰退を想像し

いったい誰が、今日の情報に埋もれた世の中を想像できたのだろうか。

かつての未来が具現化した現在は、ほんのわずかな狂人達が想像した未来だ。

 

ほとんどの人は気付かないし、望んでない。だってそんなこと思ってもみないでしょ?

だって、刀を提げて、ちょんまげ姿の彼らからすると、現代社会がいかに非常識であるかっていう話だよね。

でも、僕らにとって今こそが常識なのね。ちょんまげを誇らしげに街を闊歩しているおことがいたら、変な人、あるいは何かのコスプレイベントがあるのか、時代劇の撮影なのか、いずれにしても日常とは異なるものだと認識する。

その認識は、非常に論理的で、演繹的だ。

 

そういうところで、非常識な常識を想像する力が未来を切り開いていくのだと思う。

ただし、繰り返すけれど、そんな想像は狂人以外の何物でもない。

少なくとも侍の格好をしてセンター街のど真ん中を堂々と練り歩くくらいの覚悟はいるよね。

 

で、タイトルに戻るけど。

人の評価はくそくらえだ、っていうのは単なる自己の正当化じゃないのか。

非常識を追求できるほどのものなのか。

プライドと混同していないだろうか。

本当に、良識に満ちた論理的な大衆と、常識と対峙していけるの?

地位とか、名誉とか、当然だけど、ないよ。

実績がでるまでは。

 

要はね、勝ちゃいいんすよ、勝ちゃね。

勝つために必要なのは、気持ち?志?

違うでしょ。

もちろん、前提として、ぶれない芯は必要。別に志とかって言ってもいいけど。

必要なのは、気持ちなんていう波があって信用できないもんじゃなくて、

例外のない淡々とした、一貫性のある行動。

 

やる気だけで世界が変わるんなら、そんな信用できないクソみたいな世界はさっさとなくなればいいでしょ。

実際そんな簡単にできてない。

本当の非常識は気が遠くなるような先の先にあると思う。

気持ち云々だけではたどり着けないくらいのね。

気持ちだけで何とかしようとしてるんなら結局人の評価に振り回されて終わっちゃうね。ひゃくぱー。