二兎を追い、二兎をも得る

日常は無常。心は満腹を知らず、醜くも大衆の亡霊を頬張るばかりである。

反省文

反省することばかり重なる。これが人生なのか。

 

名前は忘れた。今日本屋で立ち読みした2冊の本が真っ当過ぎて

思わず今の自分は反省するしかなかった。

 

目的を目的にしている時点でダメなのだ。

結果ばかりを求めて学習自体にのめり込めていないから結果がでない。

そういった逆説が起こっていた。

結果(例えば試験のスコアなど)は、学習の副産物だ。

例えば、toeicで高いスコアを出す事は、英語という言語を身につけ、

グローバルな環境でのコミュニケーションする力をつけることの過程でしかない。

 

自己啓発の悪しき部分は、それがたとえ正しくとも答えを提示するところにある。

答えがわかっている時点で、目的が目的になってしまう。

瞑想もそうだ。

 

瞑想の効果として、精神安定、記憶力向上などあるが、それらはあくまでも副産物であり、本来は自我と向き合い、悟りに至るための修行である。

副産物だけをを求めても、本来の道筋をたどらないと効果はでないのだ。

 

私は、目の前の状況を改善する事しか考えていませんでした。それが段階であると本気で思っていました。

 

違います。大きな目標でさえ、それは自分本位なものである時点でかないません。

何のために学ぶのか。何のための行動、工夫であるのか。

また振り出し....。

それも良いでしょう。失敗こそが人生です。

 

”15分から20分”という時間について

いわゆる「意識の高い学生」からそのまま抜け出すことなく

その道を邁進して今や「意識の高い会社員」にランクアップ?したのがこの私である。

さて、この意識の高いという表現には当然ある種の皮肉、悪意が込められている。

 

想像には難くない。というかもう既にかなり流通している表現であると思う。

実力の伴わない意識の高さ、そのギャップの滑稽さを表現しているのである。

 

さて、社会人は学生よりもこの傾向にある人種が多い気がする。

こういった人たちはまた別の呼び名として

ノウハウコレクターと揶揄されることもある。

 

実力が無いくせして、もっといい方法はないか、もっと楽な方法は、

効率的な方法は...。といつまでも実行もせずに自身の行動力のなさを

棚に上げてノウハウに逃げるのである。

 

だから私はノウハウなんて胡散臭い言葉が嫌いだ。

これはある種自己嫌悪に近い。私もそうだった時期があった。

ひたすらに方法論に溺れる。

自己啓発書やらライフハックの類いの記事を読み漁った。

 

それも私の人生であるし否定しようとは思わない。

その時間の中で見えてきたものもある。

誰もが語る本質的な部分と、状況や運に任せた偏ったテクニック。

後者がほとんどであるから胡散臭いのだ。しかしその中に確実に本物は

存在するのだ。

 

さて、ここまでは前置きなのだ。長くなってしまった。

私が、見てきた”ノウハウ”の中で、今でも実践しているものがある。

・瞑想

・仮眠

・ランニング

である。

これらは、自己啓発の分野で取り扱われることが多い気がする(もしくは私の読むものが偏っていただけ?)。

けれどもその割に方法論もくそも無いようなものだ。

やり方がどうこうではなくて、やるかやらないか。

それにどの方法も科学的にその効果は証明されている。

 

という訳で、部屋の乱れは心の乱れ、

心の乱れは日常の乱れ、日常の乱れは...。という具合に

心身のに余裕を持たせるべく上記の3つを実践しているのだが、

この3つには共通した時間認識がある。

タイトルにある、”15分から20分”だ。

例えばランニングにおいてエネルギーの燃焼元が糖質から脂質に切り替わるのが

この時間だし、仮眠であればこの時間の仮眠効果が最も高く、これ以上の時間

は本格的な睡眠に入ってしまうので逆に頭がぼーっとしてしまうということだ。

瞑想に関しても、初心者向けとしてこの時間を目安としている記述は多い。

 

この時間が意味するものは何だろうか。

その答えはもちろんそれぞれの分野において書かれているが、

共通して言えるのは、体がその”モード”になる為に必要な時間である

ということだろう。

 

ランニングの目的はおおよそ有酸素運動効果、もっと言えば脂肪を減らすためのダイエット効果だ。

仮眠と瞑想は目的は似ているが、集中力向上効果であったり、疲労回復効果出会ったりする。

何にせよ、何かの状態に自分を持っていく上でこの時間感覚を念頭においておいた方が良さそうだ。どうやら。

 

例えば作業興奮という言葉がある。

単純作業をタスクの先頭に持ってくると、この作業興奮の効果により

集中力の高い状態で本来やるべき課題に取りかかることが出来るということだ。

おそらくはこの考え方の中でもこの時間概念は存在する。

すなわち、いわゆる仕事モードに自分を持っていくには

15分から20分で完結する単純作業を自分に課す方が都合がよいのではないかということだ。

 

これもどことなくライフハックのようでいささか筆を進めるに躊躇してしまうが、

この時間はおそらく、目は光を電気信号に変換し、心臓は全身に血液を循環させるなど人間がもつ身体の特徴であるように思う。

15分で人生が変わる!なんて書いたらものすごくあからさまにアレ(笑)な表現に

なってしまうが、

たとえ人生が変わらないにしろ15分YouTubeの関連動画を渡り歩いたり、twitterでつぶやきを追ったり、よくわからない魅力的なバナー広告を踏んだりするよりはずっと生産的なのでは無かろうかとは思う次第である。

 

 

このブログの目的について

そうだった。

 

このブログを始めたのには理由があった。

いや、もちろん何となく始めたわけではなかったが、最近書かなくなっていたのは忙しさもあるが、書くネタがなかった。

すなわち論がまとまってなかった。

つまり、やっぱり無意識のうちによそ行きの言葉を紡いでいたのだ。

そうならない為に匿名性の中でのブログという形式をとったのに。

 

誰かに見せようとするからこうなるんだよなあ。

 

 

さて、本題。なぜにこのブログを解説したのか。

私は傷ついた。本当につまらない、どうしようもないことで。

facebookという圧倒的なSNSがある。

そこでは、共感が通貨となり、お互いに価値を交換し合っているが

私には望んだような共感が得られなかった。

つまりは、世の中に嫉妬したのだ。

どんなに価値観を述べても、世に反応を求めても、

本意のわからないいくつかの”いいね!”だけが加算されていく。

 

 

表面的には大衆に迎合するなかれと息巻いていても、認めて欲しかったのだ。

自分にとって価値のある人々に。

SNSにはそれらが集まりすぎている。

だからこそ私は傷ついたのであった。

 

傷つくくらいならやめればいいのだが、それでも価値観の共感、羨望を望んでいた。

 

匿名であれば、それが言い訳になる。

決して私が認められていない訳ではない。

それに、匿名であることでフラットに価値観を評価される。

そう期待して、本当に望んでいる生き方、大きな価値をおいている物事について

周りの目など気にすることなく自由に書きたい、そう思ったのだ。

 

 

決して悪意に満ちた (笑) に屈せぬよう。

 

 

 

 

或る夜の会合にて

本日私が参加したのは、私の会社から自転車で30分(私の移動は通常自転車である)、福岡の中心街にある、とあるバーで行われる立食形式のイベントだった。

 

元来人見知りとして生きてきた私はやはり楽しさを見出すことはできなかった。

もちろん嘘のない、いい人は多く参加している。さもなければ参加する道理はない。

そもそも私に悪意に満ちた人間は近づいてこない。これはあくまで経験則だが。

 

とにかく、人と新たに関係を築くのが面倒なのだ。

面倒という言葉は悪質である。その一言で全てを否定する。棄却する。

しかし、やはり面倒であるのだ。

 

組織が同じならば話は変わってくる。複数回にわたって関わることにより相手の人間性もいくらか分かってくる。情もわくというものだ。

しかしながら、今回の参加者は今夜が初めてというものも何名かおり、出会うこと、関わることに意義を見出しているのだと思えた。

こうした無差別なイベントにおいて人脈を形成しようと思うのであれば、積極的に自ら参加し、さらに話題を持ちかけるという大技を何度も繰り返してゆかねばならない。非常にエネルギーが要る。

これが何かテーマがあるのならば話は別である。

誰々の音楽を聴く、そして語る。

何々の映画を見る。そして語る。

人との関わりとは言語によるコミュニケーションに依存するものが多い。

そんななかで、ざっくばらんに集められた人間がすぐさま打ち解けるなんていう道理が全く持って見当たらない。

もちろん当方いっぱしの社会人である。分別を持って存分に笑うし、頷く。

対価を支払った見返りが、まさか表情筋の品質向上なのだというのだろうか。

 

出会うことに価値はない。関係することに価値があるのだ。

関係は初対面ではほぼ発生しない。何度も日をまたいで顔を合わせて初めて

関係が生まれる。相手が自分の世界の住人になる。

 

このように、今回においても何度か参加できるのであれば、関係していきたい人は出てくることだろう。主催者側もそれを望んでいるとは思う。

 

しかしながら、私はどうしても勘繰ってしまうのだ。

どうしてこんなに生産性にかける会合に皆満足面で参加し、さらにメインであるはずの

洋菓子にはろくに手もつけず、ただただ世間についてのしゃべりを繰り返しているのだろうと。

こうしたものに参加するということに対してのドヤ顔が垣間見えるような気がしてしまうのだ。

 

とはいえ。

そんなくだらないことに思考を運ぶことに時間を割き、何でもかんでも意味を求めてしまうのは、それこそが生産性なんて皆無であり。

精神的な豊かさなんて持ち合わせないものの典型じゃないか。

おいしいものはおいしい。

楽しいものは楽しい。

好きなものは好きだ。

それでいいじゃないか。

 

なんともくだらない人間に仕上がってしまったものである。

スケジュール帳と日記帳

”もしも大地震がおこったら”

もしくは津波が、突然の火事に見舞われたら何を持ち出すか。

 

縁起でもない問いに対して私の回答は

・携帯電話(と充電器)

・財布

・通帳

このあたりは共通のものだろう。

災害時に持ち出せるものはぜいぜい中型のカバンに詰め込めるものが限度である。

ここから先が個人の趣向(思考)が現れる。

ウォークマン

kindle

・厳選した書籍数冊

・スケジュール帳

・日記帳

・大学ノート

・万年筆とジェットストリーム三色ボールペン

 

以上が私が持ち出すであろう全てである。

本の冊数によるが(キンドルで扱ってないものか相当なお気に入りに限られるとは思うが)そこまで大した荷物にはならないと思う。

実はこれは小旅行に行くときのラインナップとほぼ一致している。

最低限の着替えがあるかどうかの違いである。

 

すなわち、娯楽として紡がれた音と言葉、

それからスケジュール帳と日記帳が私にとっての十分条件となる。

(ノートブックは雑記用のメモである)

 

私の娯楽趣味についてはまたの機会に書き留めるにして、

ここからはタイトルにあるスケジュール帳と日記帳について書いていきたい。

 

私論ではあるが、この2つの帳面の使用法は以下の通りである。

【スケジュール帳】

・”現在”の予定、TODOの管理

・”現在”必要なデータ

(近所のコースをランニングするときの消費カロリー、欲しいものリストなど)

・金銭の予算管理

 

すなわち、今の自分を管理していくために使用している。

これに対して、【日記帳】は

・現在の懸案事項の反省と今後の改善策の考案

・将来生きていたい自分について、また自分を取り囲む人々、組織について

など、未来にベクトルを向けて使用するものだ。

 

スケジュール帳については活用している方は恐らく私よりも上手く使いこなしていると思われるので、少しだけしか触れないが、

使用しているのは「ほぼ日手帳」で、オンラインで購入した際に付属しているジェットストリームの3色ボールで記入している。

このボールペンの細さも、滑らかさも抜群にしっくり来るので

もう少しグレードのいいやつが欲しくなっているところである。

私のスケジュール帳選びの基準は単純。

・毎日の時間軸での記入欄ができる限り広いもの。

・余白が多いもの。

これまではEDiTを使用していたが、今回初めてほぼ日にしてみた。

どちらも長所短所あるとはおもうが、紙の質と、方眼があるほうが書きやすいという理由で今後はほぼ日を使うと思う。

 

さて、どちらかといえば特筆すべきは日記帳である。

日記帳は基本的にフォーマットや分量に縛りがないので各々個人流の書き方があるからだ。

日本の人口のどれくらいが日記をつけているのかは分からないが、なんとなく生きるのが嫌ならば日記はできるだけつけたほうが良いと思っている。

別にPCや携帯電話器でのブログやSNSでもかまわないのであろうが、私は手書きを薦めたい。

なぜならば、自分で記入したということが強調されるためである。

それから、帳面をわざわざ人に見せたりはしない。

デジタルで記入するとどうしても”よそ行きの言葉”になってしまう。

できるならば自分のために書くべきだと思うのである。

 

というわけで、”俺流”の書き方であるが、ポイントをいくつか列挙する。

・自分と会話する。

・できるだけ気取る。

・それでいて正直に。

・最大の目的は、自分を認めてやること、許してやること。

 

がんばれないことはきっと誰にだってある。

問題は、がんばれないからダメなのではなくて。

自分はがんばれない人間なのだと思い込んで、がんばることをやめることである。

がんばれない自分を許してあげられるのは他でもない自分だけなのだ。

これは正当化するということではなく、ダメな部分を許してあげて

それでもがんばりたいという自分を認めてやる作業なのである。

 

日記では過去のことにも触れられるが、事実は変えようがない。

だから、日記で過去の事実に触れるときとは、後悔の解釈を変えてプラスに持ってゆくと時だ。

どちらにしても、悪い思い込みを捨てて、良い思い込みをさせるのが日記の役割であると思っている。

 

というわけで、スケジュール帳と日記帳。この機会に

自分だけのお気に入りのものを探してみてはいかがだろうか。

 

継続の理論

継続は力なりとはよく言ったものだ。

多くの文章や映像、音楽が継続の重要性を教訓として民衆を説き伏せている。

 なにより継続の効果は科学的に立証されているのである。

そのため物事を始めるときは、誰しもが継続を前提としているものだ。

 たとえば、

ダイエット、筋トレ、読書、楽器のクリック練、ブログ更新などなど。

 

ところが、新たに始めた物事のほとんどはついに継続を会得することは出来ない。

それどころかスタート地点から数歩のところですでに火は消えているのである。

そんな例は枚挙に暇が無い。あらゆる人が継続が必要と思っていても、それを実現できるのはマイノリティである。

これは実に不思議に思えるが、これにも理論が存在する。

 

全てのものには理由があるのだ。

彼と”なんとなく”付き合った彼女にもちゃんと理由は存在している。

それについて言葉にできる能力があるかどうかの問題である。

 

私は思う。明日の自分が今日始めたものをやりたいと断言できるのか、と。

というのは、どうも昨日までの自分と本日の自分がとても同一人物とは思えないのだ。

まるで意識を日でまたいだ自己が、姿形はまるっきり同じで中身すら酷似しているが、実は確定的に異なる存在であるかのようだ。

 

その正体は明確。脳のコンディションである。

ホルモンの分泌状態、栄養の過不足、外的要因の認識度合いなど様々な影響を受ける脳が昨日とは違った働きをするのである。

この点については、ググれば無限に解決法を示すページがある。

 しかしながら、そうしたいわゆる”ノウハウ”を以ってしても現代人の継続に対する壁はやはり高い。(ちなみにいうと私はノウハウという言葉が嫌いである)

 

とはいえ実用的なものも確実にあるゆえに技術的な部分は、書籍とインターネットに

任せるにして、継続における心構えについて書いてみたい。

私にとってはこれが継続への理論の外枠なのである。

 

継続するためには、明日の自分が今日行ったことを遂行してくれる必要がある。

上述の通り日をまたいだ明日の自分は他人である。

他人に物事をさせるうえで必要なものは、その物事により取り組みやすくなる「準備」である。

例えば仕事においても、数値を集計して欲しいときには、記入する枠や用紙をあらかじめ用意しておく、資料をひとまとめにしておくなどするといいだろう。

 

同じように明日の自分という他人がいかに継続したい物事に取り組みやすい環境を作り出せるかが重要なのである。

後回しも、明日の自分に対する過信、慢心、驕りからくるものである。

自分は自分のことを十分に理解しているつもりでいるのであろうが、十分に理解できているのならば続かないことで悩む必要も無い。

それよりも、しっかりと把握できる自分は、この瞬間の自分のみであとは全て他人と割り切ったほうが対応のしようがあるというものだ。

 

長くなったが、自分は決して身内ではない。礼儀と思いやりを持って接すること。

それが継続への近道であると私は思っている。

後回しの理論

やらなければならぬことを後回しにしてしまうことが、多くの人にとっての悪癖である。これは周知のものと思われる。

もちろん私もそれに漏れずこの難癖に苦心していた。

 

ところが最近この悪癖の妥当性に気がついたのだ。

自分はそうなるまいと思い、認めなかったためにひらめかなかった。

このひらめきは大きい。

 

後回しにしてしまうことには、正当な理由がある。

”面倒さ”だ。

なんとなく面倒であり、気乗りしないことは後回しにしてしまううえで最も比重の大きい理由である。もちろん口には出来ない。

 

一見、これは悪癖であるように思われる。まあ、実際にそうであるとは思う。

しかし、いわばこれは逃避ではなく、確実に物事を遂行すべくの論理である。

すなわち、期日までの時間を出来る限り縮小することで、

物事と自分の距離を限りなくゼロにし、

いわゆる”面倒さ”が入り込む隙間をなくし、スムースに取り組むことができるのである。

これはむしろ怠惰でなく工夫といっていいだろう。

しかし、問題はその後回しにすることを決定したときの行動である。そこには比較的多くの隙間を持つために、行動を管理できない。

何よりも本来ならば、”後回し”にすることなく取り掛かるのが望ましいのは間違いの無い事実であるのだ。

 

この時間の縮小を上手く活用できないだろうか。

面倒さ を上手く活用できないだろうか。

ひらめきは単なるひらめきである。

課題の解決へのスタートラインにたったに過ぎない。